陸奥国
Keywords: 陸奥国, 1189年, 1607年, 1822年, 1868年, 712年, 718年, 722年, 724年, 7世紀
thumb|1868年までの範囲
陸奥国(むつのくに)は、明治以前の日本の地方行政単位である国の一つである。範囲は 今日の福島県、宮城県、岩手県、青森県と、秋田県北東の鹿角市と小坂町にあたるが、短期ではあるがこれと異なる時期もある。奥州(おうしゅう)とも呼ばれた。延喜式での格は大国、遠国。
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沿革
初め道奥(みちのおく)といい、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。
道奥国は、7世紀に常陸国から分立して、太平洋側の北辺に設置された。設置時の範囲は、福島県の東南の隅(菊多郡)を欠く部分と、山形県の中部(最上郡)と南部(置賜郡)を含み、北は宮城県中部までを含めた。
和銅5年 (712年)に、最上郡と置賜郡を新しく成立した出羽国に譲った。
養老2年 (718年) に、陸奥国、石城国、石背国の三つに分かれた。このときの陸奥国の範囲は、阿武隈川の河口以北で、現在の宮城県中部のみの小さな国である。なお、南東部に建てられた石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡をあわせた。しかし、養老6年 (722年) 年から神亀元年 (724年) までのいずれかの時期に、三国は合同して元の陸奥国に戻った。菊多郡はそのまま陸奥に属した。
ここまでの時期を通じて、陸奥国は北方の蝦夷と境を接する重要な国とみられていた。日本の領土の拡大とともに、陸奥の領域も北に拡大し、最終的には突出して面積が広い国になった。
明治元年 (1868年) 12月7日に、陸奥国、陸中国、陸前国、岩代国、磐城国の五つに分割された。このときの陸奥は、現在の青森県に岩手県西北の二戸郡を加えた範囲であった。
歴史
律令制の下で大国とされ、蝦夷と接する重要な位置にあった。隣の出羽国もまた蝦夷に接しており、陸奥国府に鎮守府が置かれ、鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。8世紀には盛んに城柵が作られた。蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大した。陸奥国は黄金と名馬を産した。
平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、俘囚の長安倍氏が陸奥の北部、奥六郡で力を持つようになった。安倍氏は国司に従わず、前九年の役で戦って滅亡した。このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、後三年の役で滅亡した。これにかわって奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。これらはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。
奥州藤原氏は平泉を本拠に、平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。しかし1189年に源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置した。
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徳川幕府の調査による人口は、文政5年 (1822年) が165万0629人であった。明治5年 (1872年) の調査では、以前の陸奥国に相当する五国合計が229万4915人を数えた。分割後の陸奥国は人口47万3244人であった。
国府・国分寺
国府ははじめ現在の名取市にある郡山遺跡にあったと推測される。神亀元年 (724年) 、多賀に多賀城が建設されると同時に国府もここに移り、これ以後10世紀に廃絶するまで動かなかった。現在の多賀城市にあり、遺跡が発掘されている。
国分寺は仙台市若林区木の下にあって、遺跡が発掘され、国の史跡に指定されている。慶長12年(1607年)、伊達政宗の力で陸奥国分寺が再興され、今日に至る。
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