第一次ポーランド楽派

Keywords: 第一次ポーランド楽派, 1913年, 1947年, 1957年, 1981年, 1994年, 2001年, アタリショック, アルバン・ベルク, アンジェイ・パヌフニク

第一次ポーランド楽派だいいちじポーランドがくは)とは、グループ49結成以後に現れた、最初のポーランド作曲家の一群を指す。総勢数十人にも及び、受賞歴や国際的な名声に彩られた者を全員紹介する訳にもいかないので、紹介が必要な人々だけを要約する形で展開したい。

目次

序説

戦後、ポーランドで作曲家のホープとされたのはアルトゥール・マラフスキとグラチナ・バシェヴィッツであったが、マラフスキが1957年に早逝し、バシェヴィッツがその位置に立つ形となる。しかし彼女の作風は、前衛イディオムをあくまでも新古典主義への注釈としてしか機能できなかった。その中でも最後の「無伴奏ヴァイオリンソナタ」は両者の属性が最高の形で融合した傑作である。

最もこの世代で有名な作曲家兼ピアニストヴィトルト・ルトスワフスキは、国際的な名声とそれに見合った高純度の作風を樹立した人物として、第一次ポーランド楽派を代表する人物とされている。1913年生まれの彼がなぜホープにならないのか、という疑問の声を聞く事もありえる。しかし、彼の創作活動は既に戦前から行われており、二台ピアノのための「パガニーニの主題による変奏曲」完成時には新古典主義を独自の書法で操れるレヴェルに達しており、本来はこの楽派から外れるはずであった。前述の作品はアンジェイ・パヌフニクと作曲者自身のピアノで披露されており、この作品は現在も「ポーランド楽派に無関心な人々の間で」人気が高い。

その彼がポーランド楽派の中心人物とみなされるようになった経緯は、ケージ・ショックをポーランド人では初めて経験したことによるところが大きい。ジョン・ケージの「ピアノとオーケストラのためのコンサート」を聞いた彼は、作曲観が180度回転するほどの大ショックを受け、前衛イディオムから生まれる新しい個人様式への渇望へ繋ってゆく。

しかし、これだけでは(第一次)ポーランド楽派が世界的な注目を受けるに到るのかの説明がつかない。グループ49は活動初期、個性は見られるものの新古典主義の枠内の音楽性に留まっている。彼らはなぜ、一躍世界的な名声を手に入れたのだろうか?

黎明期

終戦後、ポーランドソビエト連邦の影響下に置かれ、いわゆる「スターリン時代」の辛酸を嘗める。そのヨシフ・スターリン没後、西側の前衛音楽の吸収に最も積極的に動いた国がポーランドだった。スターリン批判を率先して行った最初のポーランドの作曲家がヴィトルト・ルトスワフスキである。彼の「葬送音楽」は西側の前衛音楽への興味が最初に現れ、また公的に発表を許された最初期の作品だが、これでもポーランド楽派の特性を説明できない。

第一次ポーランド楽派を語る上で欠かせない、音楽史上の大事件が起こる。ヤニス・クセナキスのデビューである。クセナキスの詳細な説明は省くが、オーケストラを駆使して生まれる激しいグリッサンド運動、クラスターの暴力性、数学理論をあくまでも疑似科学の範囲内で援用した彼は、幸運にも一躍時代の寵児となった。賛否両論が渦巻く中、この音響美を積極的に取り入れた作曲家が、次々とポーランドから現れるのである。

なぜポーランド人がこのような音響美をいち早く受け入れたのか、真相は定かではない。もう一つの理由として、ポーランド全体の文化状況が思いのほか好調だったことも挙げてみる。第一次ポーランド楽派の作品は、ほとんどPWM刊行であり、出版されたスコアの数も膨大であった。クオリティを問うてから出版するという余裕は、なかったのかも知れない。その当時のPWMのディレクターがボグスワフ・シェッフェルであった。

あまりにも細部を割愛して要約したが、これからは個々の作曲家の作風の説明に入る。

黄金期

ヴィトルト・ルトスワフスキの個人様式を語る上で欠かせないのが「ad lib.動律」である。一応五線譜上に通常の定量記譜法で書かれるが、「パート同士の縦の線を合わす必要はない」とされ、指揮者は入りの瞬間のみを提示し、柔軟性に富んだテクスチュアが展開される。このアイデアには、彼が捕虜収容所から数十Kmの逃避行を強いられた過去が反映されている。捕虜一人一人のルートは違っていても、目的は一つ「生きて帰る」のみ。ルートを旋律に、目的を和声に置き換えると、初心者は把握が容易になるのではなかろうか。「ヴェネチアの遊び」、「オーケストラの書」、「チェロ協奏曲」は彼の全盛期を堪能できる傑作群である。しかし、70年代以降は書法から牙が抜けてゆき、セミクラシック的様相を濃くしてゆく。晩年の「サンフランシスコ交響楽団のためのファンファーレ」、「スビト」のような作品群に到っては、第一次ポーランド楽派に所属した経歴を類推するのが困難である。1994年没。

クシシュトフ・ペンデレツキは、50年代末の作曲コンクール入賞独占をきっかけに、ポーランド作曲界のスターとみなされた。彼はクラスター内の音運動を全廃し、黒色の長方形で描かれる独特の記譜法が有名である。「広島の犠牲者に捧げる哀歌」は松下眞一の助言でこの題名を付け、ペンデレツキの代表作として再演が重ねられた。その後彼の作品には宗教的な色合いを強めてゆき、前衛の時代には避けられた三和音やオクターブを積極的に取り入れ、「ルカ受難曲」で頂点を迎えた後は次第にルーティンワーク化してゆく。オペラの創作に食指を伸ばしたことが、作風の衰退に繋ったとされている。なお、指揮活動には定評があり、古典作品を振ってもなかなかに達者である。

ボグスワフ・シェッフェルは、「音楽とは何か」「何が斬新か」を問いつづける、第一次ポーランド楽派の生き残りとみなされる。「不屈の永久革新性」を問うあまり、ポーランド国内からの脱出を余儀なくされるが、創作意欲は現在も旺盛である。活躍当初、ルトスワフスキ、ペンデレツキほどの人気を勝ち得ることはなかったが、前衛の時代に貢献した業績は称えられるべきである。某著で述べられているように「影が薄くなった」というのは誤りであり、彼以外の第一次ポーランド楽派の人々が衰退した事実こそ真相を究明されるべきなのだが、かつての栄光にすがりたい為かそのような文献は見当たらない。

グループ49の三人、カジミエシ・セロツキ、タデウシュ・バイルト、ヤン・クレンツは60年代に作風が開花した。第一次ポーランド楽派を誰から始めるかという議論は、大抵の場合はバシェヴィッツからとみなすのが通例だが、戦後ならではの突き抜けた表現性を獲得した彼らから第一次ポーランド楽派の祖と定義することを推奨する。
作曲家兼ピアニストのセロツキは活動当初から同音連打に拘るなど、音色美志向が顕著であったが、彼の作風を決定付けた「ドラマティックストーリー」、「フォルテとピアノ」、「カデンツァ風協奏曲」、「コンティヌーム」他で名声を決定的にした。未知の音響への興味はやがてライヴ・エレクトロニクスの実践へ繋がり、「ピアノフォニー」でクラスター音響がホール中を周回するといった音源の位置への関心を高めてゆく。この時点で、既に新古典的書法が復活しており、形式感も明解になってゆくが1981年に急逝した。
活動初期にはカロル・シマノフスキに傾倒したベイルトは「ポーランドのアルバン・ベルク」と称されるほどロマンティックな語法への関心が高く、一通り前衛イディオムを学んだ後、「交響曲第三番」、「ゲーテの手紙」、「オーボエ協奏曲」、「明日」で独自の作風を確立する。クラスターを解離音程の絡み合いと解釈した独自の音響美が聞き物である。最終的には叙情的なアダージョと断定的なアレグロの二項対立の様式へ還元されていった。この作曲家も70年代以降書法が穏健になってゆき、1981年に急逝した。
クレンツは活動当初から指揮者としての活動のほうが顕著であり、第一次ポーランド楽派の作品群は全てこの指揮者の世話になっているといっても過言ではない。近年は作曲活動に復帰しているが、シマノフスキの「仮面劇」をオーケストラ編曲したことで知られている。

ヘンリク・ミコワイ・グレツキは、「交響曲第三番」の世界的大ヒットによって知られているが、これは転向後の作風であり、楽派内で一世を風靡した時期の作品群を詳しく述べる必要がある。活動初期から衝撃音を好む異端の境地にいたが、「交響曲第一番」で特異な音響美学を提示することに成功する。恐らくは第一次ポーランド楽派の最優等生であったのだろう、60年代に作曲された「起源」、「音楽」、「激突」、「コロスⅠ」はどれも質が極めて高く、甲斐説宗によって絶賛された。この作曲家も聴衆との乖離に耐えられなかったのか、後年は宗教的及び政治的な側面を強く打ち出すようになる。「交響曲第二番」をピークとして、音響がひ弱くなってゆき、「交響曲第三番」のヒットに繋がってゆくのだが、その作品にもずらしカノンや特定の素材の執拗な反復など、かつての作風を偲ばせる要素がないわけではない。健康状態が芳しくなく、近年はめっきり寡作になったが、作曲活動は継続している。ミコワイ・グレツキと名づけた息子も作曲家であり、第三次ポーランド楽派の中核的な存在である。

ピアニスト兼作曲家のクシシュトフ・メイエルも、楽譜と音源のリリースには比較的恵まれたものの、「交響曲第三番」をピークとして、新古典的様相を色濃くしていった。「弦楽四重奏曲第二番」、「弦楽四重奏曲第三番」、「ポーランドの歌」などを生んだ全盛期には強い表現力を保っていたが、ドミトリ・ショスタコーヴィチへの傾倒、新ロマン主義の流行を真に受けたことが、作風を回顧的なものへと変えていった。現在でもその路線で作曲しており、第二次ポーランド楽派への橋渡し的な役割を務めたという見方も可能である。実験色が音楽の表層を覆わないようにする傾向は、第一次ポーランド楽派の中ではやや異質であり、一柳慧との類似性が指摘される。

ヴィトルト・シャローネクはセロツキと同じく特殊奏法の探求に熱心であったが、音の内部を顕微鏡で観察するような作風を打ち立てた。「音」の冒頭のピアノの内部奏法の扱い、「ピエルニキアーナ」のチューバへの様々なマウスピースの取り付けなどは、セロツキの効果音的用法とは趣を異にしている。ベルリンへ移住してからは教育活動が中心となったが、晩年は作曲活動に復帰し大成が期待された途上で2001年に同地で没した。

彼らは数多い第一次ポーランド楽派のほんの一部に過ぎない。ヴォドジミェルシュ・コトニスキ、マレク・スタホフスキ、ツビニエフ・バルギエルスキ、レオンチゥシュ・チゥチュラの名前を挙げてもまだ足りないくらいであろう。こうして、ポーランドの作曲家達は初めて世界的な認知を得るのである。1947年生まれのヤン・オレシュコヴィツがこの楽派の最後尾に属する理由は、楽派内での語法継承が成功した点にある。福島和夫、下山一二三、七ツ矢博資、の各氏は第一次ポーランド楽派の最良の遺産を継承した、数少ない日本の作曲家達であり、間接的に影響を受けた作曲家達は枚挙に暇がない。
後年、「ルトスワフスキ国際作曲コンクール」、「セロツキ国際作曲コンクール」、「バイルト作曲コンクール」、「ペンデレツキ国際室内楽現代音楽演奏コンクール」といったコンクールの命名法にも影響し、江村哲二(ルトスワフスキ)、久田典子、松平頼暁、松永通温、藤倉大、権代敦彦(以上セロツキ)、といった日本の作曲家達が、受賞の恩恵に浴すことになった。

衰退期

○○楽派、と名のつくものは大概の場合廃れた流行とみなされるのがオチだが、この楽派も同様の運命を辿った。前衛の時代が終わったとたん、彼らの音響は既に共有ソースになっており、もはや個性的な音響美学でもなんでもなくなっていったのである。楽派内のほとんどの人間が、驚くほど古典的な形式感に依存した点も衰退の原因である。1970年代は前衛の停滞が叫ばれ、音楽言語がほとんど進歩しなかった時代だったことも、運が悪かったと言えよう。大量に同種の作品が乱作された後に衰退したのは、ゲーム業界のアタリショックにも似ている。前述のグレツキに師事した三人の門下生はのちにジェネレーション51と呼ばれ、第二次ポーランド楽派へバトンが手渡される。

追記

ヤーコプ・ウルマンやオレグ・パイベルディンなど旧社会主義国で音楽教育を受けた彼らは、ソ連邦崩壊まで第一次ポーランド楽派くらいからしか、近年の動向に接することが出来なかった。WEBサイト上にポーランド楽派への言及はたくさん見つかるが、ポーランド側からの賛辞抜きで作風のメリットとデメリットを分析した文献は驚くほど少ない。ウィキペディア上では、彼らの欠陥を指摘しつつ論考を展開した。以上で第一次ポーランド楽派を締めくくる。

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