漫才

Keywords: 漫才, 10月12日, 12月27日, 1865年, 1890年, 1897年, 1944年, 1971年, 1975年, 6月19日

漫才まんざい)は、関西発祥とされる話芸。観客の前での主に2人組による滑稽な会話を披露し、その内容や掛け合いの妙などで客席に笑いを提供する演芸大正末期に映画の弁士によって始められた漫談にちなみ、昭和8年頃に吉本興業宣伝部によって漫才と名付けられた。漫才を行う者を漫才師と呼ぶ。

目次

歴史

平安時代から始まった芸能に、新年を言祝ぐ(ことほぐ)歌舞である万歳(まんざい)がある。これは二人一組で家々を訪れ、新年を祝う口上を述べた後に、片方が打つ鼓に合わせてもう片方が舞うというもの。江戸時代には、全国各地でその地名を冠した万歳(三河万歳、大和万歳など)が興り、歌舞のみでなく言葉の掛け合いで笑わせる芸として発展していったが、第二次大戦後にはほとんど行われなくなった。

明治時代から行われた大阪の寄席演芸である万才(まんざい)は、この万歳をベースにしたとされる。初期の万才は楽器伴奏を伴っていたが、これは万歳が由来になっているからと言える。初期の万才の芸人には、万才という分野を切り開いたパイオニアである玉子屋円辰(たまごや えんたつ、慶応元年6月5日- 昭和19年6月19日)や、砂川捨丸(すながわ すてまる、明治23年12月27日 - 昭和46年10月12日)・中村春代(なかむら はるよ、明治30年 - 昭和50年)のコンビなどがある。ただし当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才は添え物的な立場に置かれていた。

大正末期には、吉本興業の芸人である横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが、会話だけの話芸(しゃべくり漫才)として成立させ、絶大な人気を博した。昭和8年頃には吉本興業によって漫才と呼び名を変え、東京へも進出していった。エンタツ・アチャコ以降、漫才は急速に普及し、他のスター漫才師も生みだしていった。

このように漫才は寄席で行われる演芸として発達したが、その芸はマスメディアとの親和性に優れており、ラジオの普及後はラジオ番組のなかで、テレビの普及後は共にテレビ番組のなかでも、その芸が披露される機会が増えていった。

表現の様式

漫才は主に二名の演者により演じられる話芸だが、落語ほど様式が定まっているわけではない。背景音楽が使用される場合もあるし、演者自身が楽器を演奏する場合もある。また、会話のみならず身体的表現も、時には駆使される。
また、最近は三名以上のグループが一つのネタを演じる新たな漫才も登場している(ザ・プラン9安田大サーカス等)。

衣装は、伝統的には盛装が基本だが、現代の若手漫才師はお笑いタレントとしても活躍することが多いことから、普段着のようなラフな格好でも演じられることも少なくない。小道具は用いないか、用いたとしても点数はごく僅かである。いずれにせよ、衣装・小道具に関しての制約は少ない。

ボケとツッコミ

二名の演者は、ボケとツッコミと呼ばれる二つの類型に分けることができる。

ボケ役は話題の進行を担い、そのなかで面白い事を言うことが期待される役割である。話題の中に明らかな間違いを織り込んで笑いを誘う技術から、ボケと呼ばれるようになった。話題上の間違い・勘違いのみならず、笑いを誘う所作を行ったり、冗談などを主に言う行為・言う側の人物も、ボケと呼ばれる。

一方その相方は、ボケ役の間違いを素早く指摘し、笑いどころを観客に提示する役割を担う。ボケ役の頭を平手や軽い道具で叩いたり胸の辺りを手の甲で叩いて指摘する事が多い。この役割はツッコミと呼ばれる。ボケ役に対しツッコミ役が口を挟む行為を「ツッコミを入れる」と言う。ツッコミを入れるタイミングそのものが、観客の笑いを誘う場合も少なくない。また、ツッコミが入ることにより、ボケ役が進行する話題に区切りを与え、構成上の小気味よいリズムを生み出す効果もある。


関西圏の漫才を特に上方漫才(かみがたまんざい)という。

ウィキペディアに記事のある漫才師

関連項目

Keywords: 漫才, 10月12日, 12月27日, 1865年, 1890年, 1897年, 1944年, 1971年, 1975年, 6月19日