浅野長矩
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浅野 長矩(あさの ながのり、1667年9月28日(寛文7年8月11日) - 1701年4月21日(元禄14年3月14日))は江戸時代前期の大名。播磨国赤穂藩の第3代藩主。父は第2代藩主・浅野長友(長矩は長男)。官位は従五位下内匠頭。
1667年、時の赤穂藩主・浅野長直の子・長友の子として江戸にて生まれた。1671年、父・長友が長直の後を継いで藩主となる(長直は翌年に死去)。そして長友も在任わずか3年後の1675年に死去したため、9歳の幼少で長矩が家督を継ぎ、第3代藩主となったのであった。
1679年、長矩は大石良雄を家老に任命する。翌年には従五位下。内匠頭に叙任された。また同年、奇しくも吉良義央も家督を継ぎ、吉良氏の当主となっている。1681年から山鹿素行の師事を受けて成長した長矩は、1683年に幕府から勅使の饗応役を命じられる。このとき、高家出身である吉良義央が饗応役の指南役として長矩と出会うことになるのであった。1694年、長矩は病を患って一時危篤状態に陥ったため、弟の浅野長広(大学)を養嗣子として赤穂領5万石のうち、新田3000石を分知した。
そして運命の1701年がやって来た。2月4日、幕命により長矩は勅使饗応役に任じられた。しかしこの頃、長矩は病気がちになっていたと言われている。そして3月14日、江戸城中の松の大廊下にて、吉良上野介義央に刃傷に及んだのであった。しかし刀傷は義央の額を斬りつけるだけに終わり、結果として失敗してしまった。そして簡単な取り調べを受けたとき、長矩は弁解もせず、即日のうちに田村建顕(右京大夫)邸にて切腹を命じられた。享年35歳。遺骸は高輪泉岳寺に埋葬された。
辞世「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」
なぜ、長矩が吉良に刀傷に及んだのかは、諸説があって明確ではない。長矩は生来が短気で勝気が強く、何事も傲慢だった吉良に対して前々から遺恨を抱いていたとも言われていれば、吉良に饗応役の指南を受けたとき、あからさまな虐めを受けたためとも言われている。また、吉良がそのような行動をとったのも、何事も一本気な長矩が吉良に対する礼(いわゆる賄賂)を払わなかったため、長矩を恨んで虐めたのだとも言われている。
長矩の死後、家老の大石は弟の長広を世嗣とすることで赤穂藩の存続を嘆願したが、幕府はこれを認めず(一説には、将軍・徳川綱吉の側近で権勢を振るっていた柳沢吉保の陰謀で、認められなかったとも)、赤穂藩は取り潰しとなり、長広も1702年7月に安芸広島藩の預かりとなって、完全に赤穂藩再興の道は絶たれた。これにより、大石ら46士による有名な『忠臣蔵』が始まるのであった。
長広は綱吉から代替わりした1710年に徳川家宣と謁見し、大赦によりお預けの身を許された上、旗本寄合として存続を許され、皮肉にも長矩、そして大石ら忠臣たちの死後に、彼らが願った赤穂藩存続(大名ではないが)は成されたのであった。
