江戸時代
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江戸時代(えどじだい)は、江戸幕府によって日本が統治されていた時代である。慶長8年(西暦1603年)2月12日に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸(現在の東京)に幕府が開かれた時を始まりとし、慶応3年(1867年)の大政奉還までの264年間を指す。
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概要
家康は1603年に江戸幕府を開いて、幕藩体制を固め、長く続く国内平和を実現した。17世紀に国内の農地開発が進み、その後商品経済が全国に浸透し、商品作物の栽培と商工業が発達した。儒学、国学、蘭学やさまざま実学など諸学問が繁茂し、元禄文化、化政文化のような町人による世俗的文化が栄えた。
江戸幕府は、17世紀初めまで朱印船貿易を実施したが、やがて貿易相手を中国、オランダ、朝鮮に限って鎖国した。この限定貿易港は長崎のみとされたが、この長崎から西洋文化が(特に医術が)日本に伝わった。鎖国は200年以上続いたが、帝国主義時代の欧米の世界進出・侵略の手が日本にも及び、1855年にアメリカの軍事的圧力の下で開国した。開国によるインフレーションと尊王攘夷論の盛り上がりに幕府が対応できず、1869年、朝廷の錦の旗を掲げた薩長連合軍によって幕府が滅んだ。
歴史
政治・社会
- 中央政治
江戸時代は徳川氏を中心として、武士が支配していた封建社会であった。一般市民の身分制度は士農工商と呼ばれる階級制であり、武士が民衆を支配していた。それまで武士と農民は分離していなかったが、豊臣秀吉の刀狩りと武士は城下・町人は町屋・農民は村落と住居が固定されるなどにより武士階級と農民が明確に分離された。しかし江戸時代の各階層にある程度の流動性も見られる。特に江戸には地方から流入してきた農民も多く、幕府はしばしば帰農令を出している。また、全国の諸藩には、郷士と呼ばれる自活する武士も存在した。かれらは正式な武士である藩士から差別される。幕末に活躍した人びとには、勤皇方、幕府方を問わず、郷士など正規の武士階級ではない階層出身者であった者が多い。
- 地方政治
- 江戸幕府より統治の許可を得た諸大名が原則的には一代に限り土地統治を認められた封建体制である。支配体制は各大名によって異なるが、ほぼ幕府の支配体制に準ずる形をとった(例外は島津藩)。身分制についても同じである。ただ、大名には幕府により参勤交代と御手伝いの義務が課せられ、大名貧困化の大きな原因となった。これを打開するために藩政改革が18~19世紀にかけて各藩において実施される。初期は倹約と藩札発布が主であったが、18世紀中盤になると土地産物の専売制がかなりの藩で実施される。変わったところでは紀州藩の「熊野三山寄付貸付」があり、大名みずからが金融業者になり利子を取るということまでしている。
19世紀には宇和島・薩摩を嚆矢として西南諸藩が相次いで西洋化へシフトする。これに成功した薩摩、佐賀、宇和島、長州らが幕末の舞台をリード、倒幕に成功した。 なお、一部の特例を除いて知行体制を18世紀初旬までに地方知行制(現地領主制)から俸禄制(サラリー制)と変遷している。これは藩体制が土地を直接支配に成功したためであろうか。
- 地方
- この時代は幕府・大名の拠点のある城を中心とした町(城下町)の他は基本的に農村と考えられていた。このため港の利益や鉱山の鉱物なども米に換算していた。大名たちは上納金を貢いでくれる城下町が栄えることは、みずからの発展と同義と考え保護政策をおこなっている。しかし、江戸時代中期に入り港町や宿場町などの発展、農村の集団手工業による商品改良が進むにつれ、また(これが最も大きいのだろうが)大名への献金が過重になり過ぎて商家の一部がつぶれるなど、城下町の衰退が目立つようになった。この農民の商売熱を冷まそうと幕府は田畑永代売買禁止令などを発布するも効果がなかった。
農村では庄屋が幕府・大名と農村の橋渡しとして存在し、原則的に武士階級は農村にいなかったとされる。この庄屋は昔から土地を所有している有力者がなる場合が多い。また大村では複数名の庄屋が寄合を開いて村を治めた。かれらは、年貢を滞りなく収めるようにするだけでなく、施政者の命令を下達する役目もあった。と同時に、百姓が困っている場合には彼らを代表して施政者に伝えることもし、一揆の際には農村側に立って先導している。
- 財政
徳川家康は武士の支配構造の基本として重農政策を選んだため、支配者階級である武士階級は、その収入を米に依存していた。そのため幕府の経済政策の主力は米相場を安定させる事が中心になった。しかしながら、収入を増やすために米の生産量を増やすと米価が下がると言う様になかなか思うようにはいかず、商人たちが経済の主導権を握るようになる。また、町人階級の経済的躍進は、武士階級を困窮させる事になり、幾度も倹約令が出される事になる。また18世紀に入ると日本は飢饉が頻発するようになり、天保の大飢饉になると藩によっては収穫0(津軽藩など)の所も出てくるようになる。これを見て田沼意次は、重商政策を取り入れようとしたが、反対勢力によって失敗に終わっている。幕府は18世紀以降、貨幣の中に含まれる金を水増することによってお金を増やすことで財政を持ち直そうとしたが失敗に終わる。
- 朝廷関係
- 社会
五人組、慶安のお触書、田畑永代売買禁止令、士農工商 元禄赤穂事件、百姓一揆、打ちこわし、大塩平八郎の乱、剣術道場
江戸時代には封建社会に縛られた民衆のはけ口として、遠方の寺社への巡礼、参拝がさかんになった。これは多分に娯楽的な意味を持ち、民衆が旅行するようになった起源とも言われる。中には旅行代理業者や案内業も現れ、寺社の側に歓楽街ができたところもある。また、現在の旅行ガイドブックのような案内書も刊行されている。この遠方への巡礼の背景には、五街道や宿場町の整備、治安の良化などのインフラが整ったことがある。これらの代表的なものには、信州の善光寺参りや伊勢神宮へのお陰参りがある。特にお陰参りは、江戸中期後期、60年周期に爆発的に大多数の参拝者が押し寄せる現象が起き、これは江戸末期のええじゃないかに繋がることとなる。また、江戸末期には、天理教や金光教などの神道系の新宗教が現れている。
士農工商の下には、古くからあった穢多、非人と呼ばれる被差別階級があり、かれらは幕藩体制維持のために諸大名より差別政策の犠牲者となった。この存在が明治以後、部落解放運動に繋がる。
経済・貿易・対外関係
江戸時代は、鎖国政策を布いていたが、経済的にはめまぐるしい発展を遂げ、その資本の蓄積は、明治維新以降の経済発展の原動力となる。
- 農業・林業
- 農業技術:農業器具の進歩、千歯こき・備中鍬、金肥料、
- 農学:二宮尊徳
- 水産業
- 俵物
鉱業
- 佐渡金山
- 手工業
- 商品作物、マニュファクチュア
- 交通
- 都市
- 商人:江戸商人
- 貨幣
江戸幕府は、貨幣制度の改革をおこない、永楽銭などに代わり寛永通宝などの国内貨幣の鋳造をおこないこれを流通させた。しかしながら、高額貨幣は、東日本は金貨が、西日本は銀貨が流通の基本となっており、その相場も日々変動したため、両替商などの金融業を発達した、また大量の貨幣を運ぶのを避けるため、手形取引も発達した。また、1620年頃から独自に先物取引がおこなわれていた。
経済が発展するとともに大量の物資輸送の必要が出てきたが、江戸幕府の国防政策により大きな船が作ることが出来なかったため、樽廻船による日本沿海を周回する物資流通が大きく発達した。
貿易は鎖国政策を布いていたために、主流は長崎の出島における、中国、オランダとの交易であるが、抜け道もいくつか存在し、対馬を仲介した李氏朝鮮との交易、薩摩藩の支配下にあった琉球を通じた中国、東南アジアとの仲介貿易、松前藩を介したアイヌとの交易などがおこなわれていた。交易とは違うが、天候不順により海外へ難破した者も数名いた。例外もあるだろうが、かれらは一応に外国の手厚い保護を受け外国の知識を得て日本に帰国した。幕末に活躍する中浜万次郎もその一人である。
学問・思想
江戸時代には、戦乱が静まり社会が安定し平和になったことと経済活動が活発になったことにより人びとの思想が自由になり多様な学問が開花した。また経済の発展による中流階級の庶民の台頭は、学問の担い手を生むこととなった。江戸時代の学問の特徴としては、研究者個人の直感的、連想的な思考を軸とする中世的な発想で研究を進めるのではなく、文献などに基づき実証的に研究するという態度が現れたことが挙げられる。また一部には身分制度を否定したりする思想が現れ、プレ近代ともいうべき様相を呈している。
文化・芸術
- 元禄文化、町人文化、化政文化、上方と江戸、いきと通
- 文芸
俳諧、浮世草子
- 演劇
- 美術
浮世絵、西洋画、
宗教・思想
- 仏教
仏教に関しては、徳川幕府の宗教政策によって民衆支配の手段として使われたために(檀家制度)、黄檗宗が長崎華僑のために渡来したことを除いては仏教は不振となった。仏教内部も腐敗し、いわゆる「葬式仏教」が成立したのもこの時期で、形骸化した仏教は神道、儒教の両派から批判された。仏教の世俗化、隠元の黄檗宗、幕府の仏教統制
- 神道
神道では国学の隆盛に伴い、儒仏を廃した復古神道が唱えられ、一部では神仏分離が始まった。復古神道は儒教や仏教の教えを排除したが、一方では、神道と儒教が習合した神儒一致の垂加神道などの儒教神道が現れた。復古神道や垂加神道は幕末の尊王思想にも影響を与え、明治期の政策にも影響を与えた。明治維新で朝廷権力が復活したために、各地で勤皇の神社が建立され(湊川神社もこの頃)、天皇陵が各地で定められた。
- キリスト教
豊臣秀吉による伴天連追放令の流れを受け、キリスト教は江戸時代のほとんどを通じて徹底した取締りを受けた。江戸時代初期は交易国であったイギリスやポルトガルなどからキリスト教が広まったため、禁止令も徹底されなかった。しかし鎖国政策を進めるにつれてキリスト教の弾圧が激化、特に1622年9月10日に長崎西坂で多数のキリシタンが処刑された事件は「元和の大殉教」として知られる。さらに三代将軍徳川家光は、封建制度の確立、キリシタンの禁止、鎖国を三大政策として確立した。このためキリスト教徒は体制を脅かす存在として殉教か、棄教へ追い込まれた。1637年におきた島原の乱の終結後は全国においてキリシタン取締りが徹底され、寺請制度などキリスト教徒を摘発するシステムが確立された。わずかに残ったキリスト教徒は隠れキリシタンとして幕末まで信仰を存続した。江戸末期の1865年にはこの信徒たちがフランス人宣教師に信仰を告白して世界的ニュースとなった。
