東寺
Keywords: 東寺, 1233年, 1240年, 1308年, 1379年, 1390年, 1486年, 1491年, 1603年, 1644年
thumb|150px|東寺の五重塔
東寺(とうじ)は、京都市南区九条町にある、空海ゆかりの寺院である。山号は八幡山、本尊は薬師如来。「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
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概要
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。このうち東寺は後に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみである。
「東寺」と「教王護国寺」
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称がある。「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての正式名称は「教王護国寺」であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は「教王護国寺五重塔」となっている。しかし、平安時代から21世紀に至るまで、この寺はもっぱら「東寺」と称され、「教王護国寺」という名称は実際にはほとんど使われてこなかったことも事実である。「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類には一切見えず、この寺号の文献上の初出は仁治元年(1240年)である。後宇多天皇直筆の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)や、南北朝時代に成立した東寺の正式の記録書である「東宝記」にも明確に「東寺」と表記されている。
起源と歴史
『東宝記』(南北朝時代に成立した、東寺の記録書)の記載によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
弘法大師空海(774年-835年)は、讃岐国(香川県)出身の僧。真言宗の開祖であり、東寺と高野山(金剛峰寺)の基礎を築いた実在の人物であるが、後世には空海自身が「お大師様」として信仰の対象となり、なかば伝説化された存在となっている。30歳頃までの青年期には奈良の寺々で学問にはげみ、山林に分け入って修行していた無名の僧であった空海は、延暦23年(804年)、留学生(るがくしょう)として唐に渡った。彼は当時の唐の都・長安(現・西安)で青竜寺の恵果和尚に師事し、密教の奥義の伝授を受け、2年後の大同元年(806年)に帰国した。空海が、若い頃に修行したことのある高野山を下賜されたのは弘仁7年(816年)のことであり、その7年後の弘仁14年(823年)に東寺を下賜されている。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181年-1252年)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇、後醍醐天皇、足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家、徳川家などの援助により、金堂、五重塔などが再建されている。
伽藍
- 金堂(国宝)-現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもの。内部には広大な空間の中に本尊の薬師三尊像が安置されている。中尊の像高2.9メートルに達する巨像で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。
- 講堂(重文)-室町時代の延徳3年(1491年)の再建。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来をはじめとする21体の密教彫像が所狭しと安置されている。これらは、日本最古の本格的な密教彫像である。講堂の諸仏は空海没後の承和6年(839年)に完成しているが、全体の構想は空海によるものである。堂内中央には五仏(五智如来)、堂内向かって右(東方)には五大菩薩、向かって左(西方)には五大明王を安置するほか、堂内の東西端には梵天・帝釈天像、壇上四隅には四天王像を安置する。これら21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は後世の補作に代わっており、残りの15体が国宝に指定されている(五仏は重要文化財に指定)。
- 食堂(じきどう)-空海没後、9世紀末から10世紀初めにかけて完成した。1930年(昭和5年)の火災で焼失し、現在の建物はその後の再建。本尊の千手観音立像は火災で焼損したが、1960年代に修理され、現在は寺内の宝物館に安置されている。
- 五重塔(国宝)-東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられた。創建は空海没後の9世紀末であった。
- 御影堂(国宝)-南北朝時代に建てられた住宅風の仏堂である。国宝指定の名称は「大師堂」だが、一般には御影堂と呼ばれている。この堂のある一画を「西院」といい、空海の住房跡とされている。康暦元年(1379年)の火災による焼失後、その翌年に再建されたのが現存の建物である。ただし、堂の北半分は弘法大師像を安置するために明徳元年(1390年)に増築されたものである。堂の南側には空海の念持仏とされる不動明王坐像(国宝、9世紀)を安置する。厳重な秘仏で非公開であるが、日本の不動明王像としては最古の作例の1つである。堂の北側には弘法大師坐像(国宝)を安置する。この像は天福元年(1233年)運慶の4男康勝が制作したものである。この像は庶民の信仰を広く集めており、像の前では、毎朝6時に「お大師様」に朝食を捧げる「生身供」(しょうじんく)が執り行われ、多くの参拝者が集まる。
- 灌頂院(重文)-伝法灌頂(密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)、後七日御修法(ごしちにちのみしほ:正月の8日から14日までの間に、天皇の安泰を祈願する儀式)などの儀式を執り行うための堂で、内部には仏像は安置されていない。
- 宝蔵(重文)-平安後期建立の校倉(あぜくら)造倉庫。東寺最古の建造物。
- 八幡宮-1868年(明治元年)に焼失後、1世紀以上を経た1992年(平成4年)に再建。東寺の鎮守神である僧形八幡神像と女神(じょしん)像2体を安置する。
- 南大門(重文)-1895年(明治28年)、三十三間堂の西門を移築したもの。
文化財
国宝指定物件は以下のとおり。
- 金堂
- 五重塔
- 大師堂
- 蓮花門
- 観智院客殿-慶長11年(1606年)の建立。
- 木造五大菩薩坐像(中尊像を除く4躯)-講堂安置
- 木造五大明王像-講堂安置
- 木造梵天・帝釈天像-講堂安置
- 木造四天王立像-講堂安置
- 木造不動明王坐像・天蓋-大師堂(御影堂)安置
- 木造弘法大師坐像-大師堂(御影堂)安置
- 木造兜跋毘沙門天立像-もと平安京の羅城門楼上に安置されていた像。唐時代。宝物館に安置。
- 木造僧形八幡神坐像1躯、女神坐像2躯、附・武内宿禰坐像-鎮守八幡宮安置。平安初期の作。日本の神像の最古作の1つ。
- 真言七祖像(絵画)-真言宗の祖師7人の肖像画。7幅のうち5幅は空海が唐から持ち帰ったもので、損傷甚大とはいえ、唐時代絵画の数少ない遺品としてきわめて貴重。
- 五大尊像-宮中で正月の8日から14日までの間行われた後七日御修法(ごしちにちのみしほ:天皇の健康を祈る密教の修法)の際に道場に掛けられた仏画。平安後期の作。
- 両界曼荼羅(伝・真言院曼荼羅)-日本に伝わる両界曼荼羅のうち、もっとも著名なもの。鮮烈な色彩とインド風の濃い諸仏の官能的な肢体のが特色。「西院曼荼羅」とも称する。平安初期、9世紀の作。
- 十二天屏風-鎌倉時代の作。
- 密教法具-唐時代制作の仏具一式。空海の請来品。
- 犍陀穀糸袈裟・横被(けんだこくし けさ・おうひ)-唐時代の染織工芸品。空海の請来品。
- 海賦蒔絵袈裟箱(かいぶまきえ けさばこ)-平安初期の漆工芸品。上記袈裟を収納するためのもの。
- 紫檀塗螺鈿金銅荘舎利輦(したんぬりらでんこんどうそう しゃりれん)-舎利会(しゃりえ:仏陀の遺骨をたたえる年中行事)で用いるもので、神社の神輿に似ている。「紫檀塗螺鈿金銅荘」とは、黒漆塗に朱漆で木目を描き(紫檀塗)、螺鈿(貝殻を用いた装飾)と金銅(銅に金メッキしたもの)で飾ったという意味である。
- 弘法大師筆尺牘(こうぼうだいしひつ せきとく)-「尺牘」とは漢文体の手紙のこと。空海自筆の手紙3通を巻物に仕立てたもので、日本書道史上きわめて貴重な作品である。1通目の手紙(最澄あて)の冒頭の「風信雲書」という句にちなんで「風信帖」と通称される。
- 弘法大師請来目録-空海が唐から持ち帰った品の目録で、筆者は最澄である。
- 後宇多天皇宸翰東寺興隆条々事書御添状(ごうだてんのうしんかん とうじこうりゅうじょうじょうことがき おんそえじょう)-「宸翰」は「天皇の自筆」の意。弘法大師に帰依した後宇多天皇が、出家の翌年に東寺の発展を願って書き記したもの。
- 東宝記-南北朝から室町時代に成立した、東寺の公式記録書。
東寺旧蔵の国宝
- 十二天像(京都国立博物館蔵)-平安後期の色彩華麗な仏画。
- 山水屏風(せんずいびょうぶ)(京都国立博物館蔵)-密教の儀式の際、道場に立てられた屏風。平安後期。
- 牛皮華鬘(ごひけまん)(奈良国立博物館蔵)
- 後宇多院宸記(国立歴史民俗博物館蔵)
- 三宝絵詞(東京国立博物館蔵)
- 入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)(岐阜県・法人蔵)
- 類聚名義抄(天理大学蔵・天理図書館保管)
弘法市
毎月21日は弘法大師にちなみ「弘法市」が開かれ、縁日が並ぶ。この市は俗に「弘法さん」と呼ばれて親しまれている。特に師走21日の「終い弘法」には、多くの人々が詰めかける。
