広開土王
Keywords: 広開土王, 374年, 386年, 391年, 392年, 393年, 394年, 395年, 396年, 399年
広開土王(こうかいどおう, 生没年374年~412年, 在位391年~412年)は4世紀末から5世紀初めにかけての高句麗第19代国王。東部鮮卑の前燕の攻撃を受けて衰退していた高句麗を中興し、領土を大きく拡張した。中国や日本では好太王とも呼ぶ。また在位中、永楽という年号を使用したので永楽大王とも呼ぶ。
生涯
本名は談徳。故国攘王の息子で、386年太子に冊封され、391年即位した。在位中、高句麗の領土を拡張させたが、礼成江を境に百済に対しては即位初めから積極的な攻勢を取った。392年石硯城(開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し関彌城(江華島の喬桐島)を陥落させた。394年には水谷城(今の新渓)を築き、395年には現在の礼成江んまで侵攻して来た百済君を撃破して百済との接境に7城を築き防備を強化し、396年には漢江を越えて進撃し58城700村を攻略した。 399年高句麗と友好関係にある新羅を百済が倭を先に立たせて攻撃すると皆潰滅させた。407年には百済を攻撃して6城を討ち百済を懲らしめた。
このような南方での勢力拡張とともに西側への進出も図っている。当時高句麗西方にあった慕容氏の後燕国に使節を派遣するなど友好関係を維持したが, 400年後燕王慕容盛が蘇子河流域にあった高句麗の南蘇城と新城に侵攻して来ると王は後燕に対する反撃を敢行した。この時、遼東城(今の遼陽)を含めた遼河東岸地域を占領した。この外にも392年北方で契丹を征伐し、男女500人を捕らえて契丹に捕まっていた高句麗人1万人を連れ戻した。410年には東夫余を屈服させることで北と東に領土を拡張し、西は遼河、北では開原から寧安、東では琿春、南へは臨津江流域にまで至った。
また内政の整備にも力をつくし、長史・司馬・参軍など中央官職を新設し,歴代王陵保護のために守墓人制度を制定した。393年には平壌に9寺を創建して仏教を奨励した. 412年39歳で世を去った後、414年息子の長寿王が生前の功績を記録するために立てた陵碑(広開土王碑)が現在中華人民共和国吉林省通化集安市(旧、輯安県)に残っている。諡号は国岡上広開土境平安好太王である。
好太王碑文
この碑文は414年、広開土王の息子長寿王が鴨緑江沿いの丸都城の近くに、父を称える目的で建立されたと言う。この碑には、倭が4世紀末に朝鮮半島南部の百済・新羅を攻撃、勢力化に置いたことから、新羅王の救援要請を受け、広開土王は兵を率いて、倭に服属した百済へ侵攻、首都陥落の手前で倭とのつながりを断たせたが、百済は高句麗が撤収すると再び倭と繋がり、これを新羅から伝えられた広開土王は再び百済に侵攻、400年には倭が大軍で押し寄せ、広開土王はこれを撃退した、と書かれている。
明治時代に日本軍がこれを持ち帰り解読に成功した。第二次世界大戦終結後は大韓民国などの研究者によって調査されたが、一部には「日本が併合を正当化するために捏造したものだ」という主張もなされている。しかしながら、正当化のためならば日本が勝ったことにしても良いはずで、やはり石碑の内容は本物だという説が有力である。
