太平洋戦争
Keywords: 太平洋戦争, 11月26日, 12月10日, 12月12日, 12月1日, 12月8日, 1937年, 1941年, 1945年, 1952年
チリとボリビア、ペルーとの間で1879年-1883年に戦われた太平洋戦争(別名:硝石戦争)については、太平洋戦争 (南米)を参照のこと。
太平洋戦争(たいへいようせんそう、Pacific War)は、昭和16年(1941年)12月8日(日本軍発表日)から昭和20年(1945年)8月15日(欧米では9月2日)の期間の、日本軍と連合国軍(主にアメリカ、イギリス、中国、オランダ)との戦争である。大東亜戦争、アジア・太平洋戦争とも呼ばれる。第二次世界大戦の西太平洋地域における局地戦とも言うことができる(本稿にて詳細を述べる)
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この戦争の呼称・表現を巡って
大東亜戦争という呼称は、1941年(昭和16)12月10日の日本の閣議決定、「今次の対米英戦争及今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」にちなむ(12月12日発表)。当時、大半のアジア諸国が欧米諸国の植民地支配下にある中で、大東亜戦争と呼称するのは、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず。」(情報局発表)として、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものと規定した。これは1943年(昭和18)11月の大東亜会議で再確認されたが、敗戦後、これをプロパガンダだったと見て、侵略戦争だったと見る者もいる。
日本において太平洋戦争という呼称は、降伏後に当時の大東亜戦争という呼称を、連合国軍最高司令官総司令部により公文書において使用することが禁止された後、言論統制により、連合国側表記に合わせる形で利用されるようになったものである。今でもその名残で、一般的には太平洋戦争が使われることが多い。主戦場が太平洋のみならずアジアの大陸部も含んだことから、近年ではこの戦争をアジア・太平洋戦争と呼ぶことが提唱されているが、この呼称は侵略戦争としての側面を徒に強調するという批判がある。
教育界において「太平洋戦争」と言う呼称が使われることもあり、日本軍が「アジア大陸及びアジア諸国」において日本軍および同盟軍と連合軍による戦闘が行われたという認識よりも、「米英と太平洋で戦争した」と言う捉え方が一般的になっている。 日本においては閣議で決定したものであり、戦後も日本政府がこの決定を否定した事実はないので、連合国軍最高司令官総司令部による支配から主権を回復した現在では「大東亜戦争」が正式な呼称であるとの説もあるが、戦後制定された法律では全て「太平洋戦争」という語句を用いており(「沖縄振興特別措置法」平成十四年三月三十一日法律第十四号 等)、法律用語としてはこの呼称が定着している。また、「戦争賛美」「復古的国粋主義を煽る」との理由から「大東亜戦争」という語句の使用に反対する意見もある。
日本共産党では、盧溝橋事件に始まる日中戦争も含めて「15年戦争」と呼んでいる。
戦争への経緯
1937年から始まった支那事変を受け、以前から日本と対立していたアメリカ、イギリス、オランダ等は日本に対して中国大陸への進出を停止する様に交渉を開始した。その中でアメリカ・イギリス・オランダは石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとる様になる(ABCD包囲網)。これに危機感を強めた日本はナチス・ドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。
1941年4月から近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ駐留すると、両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止などを通告した。
10月に近衛内閣から代わった東条英機内閣は、アメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して最終交渉に当たったが、より譲歩した乙案も拒否され、中国・インドシナからの撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを提示された(11月26日)。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。
戦争の経過
開戦初期
1941年12月8日(日本時間)、日本軍はアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイの真珠湾とアジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール攻略のためのマレー半島のコタ・バルとに奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリス軍と交戦状態に入った。日本海軍は、山本五十六連合艦隊司令長官が考案し、後に一般的となった航空母艦を主力とした航空戦力による海上支配戦術で真珠湾におけるアメリカ海軍太平洋艦隊の奇襲攻撃に成功するも、実際アメリカ軍に与えたダメージはそれほど深刻ではなかった(真珠湾攻撃)。肝心の空母機動部隊は出払っており、完全に撃沈したと思われた艦艇も後に引き上げられて戦線に投入されている。また、二回行った空爆では地上施設への攻撃はほとんど皆無で、三回目の空爆を進言した部下の意見を山本五十六連合艦隊司令長官は了承しなかった。前線の兵士たちは空爆は二回で終了し、後は帰るだけだと思って気を緩めているのに、再度出撃しても戦果より被害の方が大きくなると考えたためだった。一方マレー沖ではイギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈、史上初めて航空機が戦闘航行中の戦艦を撃沈するなどの快挙を遂げた(マレー沖海戦)。この戦闘で航空機優位を世界に示すこととなったが、当の日本海軍はそれを重要視することはなかった。フィリピン、シンガポール、ジャワ島、スマトラ島、ボルネオ島(当時)など日本が求めていた資源産出地域は緒戦において日本軍の占領地となった。第一段作戦は先制攻撃であることを含めても当初の予想下回る損害で成功裏に終わった。
転換期
連戦連勝だった日本軍の転機となったのがミッドウェー海戦で、ミッドウェー攻略に空母機動部隊が投入されることをアメリカ軍は日本軍の暗号無線を解読して察知。主力空母を軒並み撃沈され、真珠湾攻撃以来のベテランパイロットが激減し、大打撃を受けた。アメリカはガダルカナル島上陸を機に反攻に転じ、ソロモン海域で激しい戦闘が行われて双方とも多くの艦艇や航空機を失った。南太平洋海戦では太平洋でのアメリカ軍の稼働空母を一時的に0とするなどしたが、結果、国力に劣る日本は守勢に追い込まれていった。
太平洋では、次第に制海権を失いつつある日本海軍に対し、アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底してシーレーン破壊作戦を実行、日本への物資や資源輸送を封じ込めた。
マリアナ沖海戦での日本軍の敗北の結果、マリアナ諸島がアメリカに占領され、日本の本州への直接の空襲が可能になった。アメリカはドイツがイギリスに行った空爆を模範に、徹底的な日本本土への空爆を行った。東京大空襲、大阪大空襲などがこれにあたる。
日本陸軍はガダルカナル島での戦闘やインド北部でのインパール作戦等の失敗で後退が続いていた。
戦争末期
レイテ沖海戦は世界史上最大の海戦となり、太平洋戦争において最後の大戦闘となった。この戦闘で日本海軍はほぼ壊滅状態となり、まともな作戦行動は出来なくなっていた。 この際、航空機による特攻によってアメリカ海軍の護衛空母1隻を大破撃沈するという戦果を挙げ、この結果によって特攻は過大評価され、そのまま海軍の重要作戦として位置づけられ終戦まで続けられることになる。神風特攻はアメリカ海軍の乗組員達を恐怖に陥れはしたが、戦局を変えるには至らず、多くの若者が海に散っていった。南方の資源輸送の安全保障のために確保したフィリピンを失ったことは、もはや日本にとって戦争継続の力がなくなったことを意味した。
その後、硫黄島が占領され、続いて沖縄が戦闘に巻き込まれていき、日本の敗戦はほとんど濃厚となっていた。この頃、日本海軍の象徴的存在であった戦艦大和も撃沈される。今でも史上最大の戦艦の異名を誇る大和ではあるが、実際に敵戦艦と撃ち合った事もなく、輸送船を何隻か沈めたり航空機を何機か落としたに過ぎず、建造にかかった費用と時間にはとても見合わない働きであったと言えよう。そして早くもヨーロッパではドイツが降伏し、戦争は終結していた。日本はこの間外務省を通じて、当時日ソ中立条約によって国交のあったソ連に終戦の調停を申し入れたが拒否された。
米英中の三カ国によるポツダム宣言に対し、本土決戦ありきと継戦強硬派の軍部を抑え切れず、態度を保留していた日本は米国によって、広島・長崎に原子爆弾による人類史上初の核攻撃を受ける。
投降
1945年8月10日、政府は同盟通信社及びNHKの短波を利用して、「天皇の大権が侵されない」ことを条件にポツダム宣言の受諾を全世界に通告、8月14日に御前会議において宣言の受諾を正式に決定し、8月15日、昭和天皇の声明を録音したレコードで、全国に同宣言の受諾を国民に知らせる玉音放送が行なわれ、日本本土での戦闘は終結した。
しかし、沖縄や南洋諸島においては終戦を知らない兵士達による局地的な戦闘が散発的に続けられた。南樺太と千島列島では、8月15日以降にソ連軍が上陸を開始し、本格的な戦闘が行われた(この際に北方領土も制圧された)。武装解除などを経て戦闘が終息した後、降伏文書の調印は9月2日に東京湾上の連合国軍戦艦ミズーリ号艦上にて行われた。
年代順の経過については太平洋戦争の年表を参照。
戦後処理
戦後、日本にダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国総司令部(GHQ)が置かれた。
まず初めに戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、元総理の東条英機陸軍大将らが戦犯として裁かれ、7名が死刑(絞首)に処されたが、昭和天皇は戦争責任を問われなかった。次に治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行い占領体制を完成した。 また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に日本への改造を行った。
1952年のサンフランシスコ講和条約により連合国総司令部は廃止となり、戦後処理は終了した。
その他
戦争の評価(日本)
太平洋戦争の評価については、1990年代より歴史家だけでなく知識人、作家、一般市民などを巻き込んだ議論の的となっている。日本と日本人の運命を変えてしまったこの戦争について、多くの国民が答えを求めている。
加害者としての認識
従来の戦争理解について、それが戦争の被害者の立場(空襲や原子爆弾による被害、各地の地上戦など)を強調するものであり、アジアの諸外国に対して行った行為について侵略者=加害者としての立場からの反省が必要だ、とする意見もある。
これらは高等学校などの教育者によって熱心に支持され、学校教育で使用する教科書にはこちらの主張が大きく採用されつつある。
解放者としての見方
他方で、そうした戦争理解は自虐的であるとし、結果としてアジア諸国が次々と独立を果たしたこと、その原因の大きな部分が太平洋戦争にあること、などを積極的に評価し、戦争を肯定的に評価する見方もある。
この主張を下に、「新しい歴史教科書」を製作した企業や団体があり、教科用図書検定にも合格した。この教科書は中国や韓国などに「侵略の歴史を賛美するものだ」として抗議されたが、内政干渉だという反論もある。また、これを採用しないようにと活動した市民グループなどの圧力もあり、使用されている率は低い。
自衛戦としての見方
先述の通り、ABCD包囲網によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとする見方もある。また、その伏線として米国が大陸への利権を求めて日本を圧迫したという背景もある。
戦争の二つの側面
この戦争には「2つの側面」があるという研究者がいる。 1つ目は中華民国への侵略及び、侵略を継続するために必要な油田と防衛拠点確保のため、列強植民地である東南アジア(当時、タイ以外の東南アジアが植民地であったことは忘れられがちである)への進駐。2つ目は、1つ目の目的遂行のために行われたアメリカ・イギリス・オランダとの戦争である。アジアに対しては「侵略」、欧米に対しては「対等な戦争」、名前は一つでも、実際には二つの側面があることを無視すると、この戦争は見えてこないとしている。
アジアに対する侵略は、日本よりもはるか昔から欧米は行っていたことで、歴史的には中国の王朝も東南アジアを征服しようとしているため、「侵略」という言葉だけに過敏に反応する必要はなく、欧米諸国(或いは中国を含む)と共に、侵略者として歴史の事実として捉えることが必要であるとする。
欧米諸国とは、すでに対等な関係を構築していた上、勢力圏を巡って戦争をしたというわけで、「宣戦布告」も行っている。これらの国はすでに世界中を侵略した張本人であるが、これらの国に対しても、日本は侵略したと考える人もいるが、それは誤りであるとしている。
戦争の評価(アジア)
かつて被植民地・被占領地だったアジア諸国においてもその評価は割れている。これは、アジアには多民族国家が多く、各集団によって世界観が大きく異なるためであると言われているが、一般的に、直接被害を受け、また占領された中国や韓国・北朝鮮においては日本の責任を厳しく問う意見が強い。
その一方で、さほど被害を受けなかった台湾を含む他のアジア諸国では高く評価する意見もある。高評価の理由については、建国の功労者に、戦時中日本政府に支援を受けた者や、日本軍に協力をした者がいたケースや、日本の植民地時代・占領時代が良好であったと評価されたケース、また単純に反米的なイデオロギーを持っていたケース、或は軍事政権の雛形として評価せざるを得ないケースなど様々であり、その理由を一概にまとめることは難しい。
「占領地の多くで日本が近代化を推し進めたことに起因する」という説もあるが、これには“何のため・誰のための近代化だったか”と反論する意見がある。
台湾における評価
台湾では戦時中、米軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。
戦後入ってきた国民党に対する批判により、相対的に(特に本省人の間で)日本の植民地政策を評価する声が高い。また日本を評価する勢力の一部は太平洋戦争についても解放戦争であったと位置付けている(台湾自体については清朝から日本に直接割譲された経緯があるため、日本による台湾の領有について「解放」と位置づける言説はあまり見られない)。
その一方で台湾は中国の一部であると主張する勢力は、日本の植民地政策を中国への侵略行為に過ぎないと評し、太平洋戦争も侵略であったと主張している。
太平洋戦争末期には台湾でも徴兵が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。自ら志願して戦地に赴いたと誇らしく語る人もいれば、無理矢理連れて行かれたとの批判もある。当時は日本人であったからと死後靖国神社に祀られないのは差別であると批判をする人もいれば、その反対に靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害であるとして日本政府を提訴している人々もいる。
また、戦後になって台湾にも従軍慰安婦になることを強いられた女性達がいるという主張も出てきた。
現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっている。
日本の植民地政策に対する評価についての詳細は、日本統治時代 (台湾)にある戦後の評価の項を参照。
