太平天国の乱
Keywords: 太平天国の乱, 1851年, 1853年, 1855年, 1864年, 1月11日, 3月19日, 5月3日, 7月19日, アロー号戦争
太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は中国清代に起きた大規模な反乱。
洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起こされた。
| 目次 |
拝上帝会の興隆
太平天国の前身は拝上帝会(上帝はヤハヴェの事)と言い、洪秀全が広西省で作った教団である。 神の下に人類はみな平等であることを教えとし、貧しい農民らを中心に数千人の信者を得た。 また、偶像崇拝を厳しく否定し孔子廟などの破壊を行った。 そして、清朝を含む体制を神の支配を妨げるものとして排除する方向へ進んだ。
太平天国を称す
1851年1月11日(道光三十年十二月十日)、拝上帝会は太平天国を名乗り清に対して反旗を翻した。洪秀全は天王を名乗り、道々参加者を募りながら9月に永安(現在の広西省蒙山県)を落とす。半年の間、ここに滞在した太平天国は、ここで官制や官爵などを決め、国の体裁を整えた。清からの独立を宣言したと同じ事である。
この時に天王の下の五幹部、
- 東王 楊秀清
- 西王 蕭朝貴
- 南王 馮雲山
- 北王 韋昌輝
- 翼王 石達開
を決定した。この内、楊秀清は天父下凡(てんふかぼん)、蕭朝貴は天兄下凡(てんけいかぼん)と称しそれぞれヤハヴェとキリストの託宣を受けられると言い、それを借りて自らの命令を通していたので次第に洪秀全の発言力は減っていった。
戦乱の推移
先立つ阿片戦争で消耗し、またアロー号戦争をも同時進行で戦わなければならない正規軍は広大な中国において分散し、正面からぶつかる事も不可能な事態さえ起こった。そして、大衆を吸収して膨れあがった太平天国軍は清軍を何度も打ち破った。
1853年(咸豊三年)3月19日、太平天国軍は江寧を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てた。
1853年5月には、北伐を開始し一時天津まで迫り、西方にも勢力を拡大した。しかし、太平天国軍の主体は華南人で、華北では気候も習慣も異なり体調を崩すなどして士気が上がらず、また、華南ほどには民衆の支持が得えられず、次第に勢力を弱めていった。
鎮圧
その後、清側では、孤立した状態で各個撃破されていった各地の駐防満州軍八旗に代わり、まとまった地域を面で確保した有力者が編成した独自の軍が作られるようになった。代表的なものに湖南省湘郷周辺を基盤とする曽国藩の湘軍・それを参考にして作られた李鴻章の淮軍がある。また、欧米人は自らの財産を守るため自警軍を編成し、時として太平軍と行動を供にし、最終的には太平軍を攻撃した、これには米国人ウォード(のちに英国人ゴードン)の率いた常勝軍などがある。そして、1855年5月3日に、太平天国軍側の北伐軍は清軍に大敗し壊滅した。
戦果がなくなった太平天国軍は兵糧の確保に困難を来すようになり,急激にふくれあがった組織は内部の結束における弱点が顕著に表れ、内部での争いが続き、韋昌輝によって楊秀清が殺される。その後韋昌輝は石達開に殺され、石達開は洪秀全に疑われたため離脱していった。このようなことで一度下り坂になると、離脱して一般人に紛れ込んでいく漢民族が続出し、急速に勢いを失っていった。
結末
1864年(同治三年)7月19日、曽国藩らを中心とする湘軍の攻撃により天京が陥落し太平天国の乱は終結した。洪秀全は落城の少し前に自殺(病死説もある)しており、残る兵士達は死罪が確実であるので最後まで投降できず戦い続けた。
