国家社会主義ドイツ労働者党
Keywords: 国家社会主義ドイツ労働者党, 11月6日, 1919年, 1925年, 1928年, 1930年, 1932年, 1933年, 1945年
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国家社会主義ドイツ労働者党(こっかしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう。国民社会主義ドイツ労働者党(こくみんしゃかいしゅぎドイツろうどうしゃとう)とも。Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)は、ドイツの政党。 略称、ナチ党(ナチス)またはNSDAPなど。
ヴァイマル共和国において民族主義と社会主義の折衷的な政策を掲げ、党首アドルフ・ヒトラーの指導の下にヴェルサイユ体制を激しく攻撃して広い層から支持を得た。また、人種を国家の根本としてドイツ民族の優越と反ユダヤ主義を綱領に取り入れた。 政策については25カ条綱領も参照せよ。
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背景
第一次世界大戦での敗戦国として戦勝国から多額の賠償金を請求され、ドイツは苦しい国内状態を強いられていた。それに加えて世界恐慌が生じ、列強各国は植民地囲い込みによるブロック経済で乗り切ろうとしている中、多額の賠償金負担に併せて植民地をすべて失ったドイツは深刻な経済不況に陥る。「札束が紙くず並み」と言われるほどの急激なインフレと国民の多くが失業するという稀に見る状況がドイツ社会を取り巻いていた。また、フランスが賠償金支払い遅延を理由にドイツの産業の中心であるルール地方を占領するなど国家として崩壊寸前の一途をたどっていた。
そうした中で国民の期待を背負って立ったのが国家社会主義ドイツ労働者党であった。ヴェルサイユ体制打破をスローガンに称え登場したナチ党は失望の中にいたドイツの労働者(失業者)を中心に支持されていった。当時の中央政府には全く期待は持てず、事実経済は深刻な悪化に陥る状況で、このドイツの状況を変え改革をもたらす新勢力としてナチ党は人気を高めていったと言える。
事実ヒトラーは総統に就任した後、国策として産業を育成。軍需産業や自動車産業の振興を奨励し、急速に経済は回復していく。また「アウトバーン」の建設にも取り組み、この一大事業でドイツでは街中を埋め尽くしていた程の失業者がほとんどいなくなったと言われる。
党の歴史
1919年1月5日バイエルン州都ミュンヒェンで錠前師アントン・ドレグズラーとスポーツジャーナリストのカール・ハラーによってドイツ労働者党として結成された。 結成当初は第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗北とそれにともなう革命に紛然とする世相に乗じた、わずか40人程度の泡沫政党に過ぎなかった。その母体であったトゥーレ協会の会員には、ナチ党初期のイデオローグとして活躍したアルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカートや、のちに副総統となるルドルフ・ヘスなどがおり、協会の異教的神秘主義・反ユダヤ主義はナチ党の思想に大きな影響を与えた。
ヒトラーの入党と党勢の拡大
アドルフ・ヒトラーが入党したのは1919年9月12日の集会に参加した数日後で、すぐに党になくてはならない演説者となった。ヒトラーはドレグズラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義などを訴える25カ条綱領を作成した。この綱領には反ユダヤ主義・国粋主義も見られたが、最も顕著なのは産業の国有化・福祉政策の推進など社会主義的な要求であった。
またヒトラーの発案で党章の図案が募集され、歯科医フリードリヒ・クローンの提案した鉤十字(ハーケンクロイツ)に修正を加えたものが党章・党旗として制定された。同じ頃、週刊紙『ミュンヒェナー・ベオバハター』を買い取り、機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』(民族観察者)として創刊している。これらの政党運営手法は敵である共産党を範としたものであり、ナチ党の無定見な性質を表していると言える。しかし原則にこだわらないこれらの手法により、ナチ党は急進的な泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。
1920年2月24日ドイツ労働者党はミュンヒェンのホフブロイハウスで開かれた党大会に2000人を集め、綱領を公開した。それに先立って党名を国家社会主義ドイツ労働者党 に改めている。 しばしば略称として用いられるナチとは社会党の略称ゾチにあわせたものだが、党員は普通正式名称を用い、省略する場合はNSDAPを用いた。また党員を指す言葉として「国家社会主義者」が使われたが、単に「社会主義者」ということもあり、党員同士に呼びかけるときも同志・党同志などの用語が用いられるなど社会主義的な雰囲気が強かった。
その後エルンスト・レーム大尉やディートリヒ・エッカートらの支持もあって、ヒトラーは党内での勢力を拡大し、1921年7月29日に開かれた幹部会議では独裁権を認められて党首となる。また同年8月レームの設立した「体育スポーツ局」は10月には突撃隊と改称し、左翼勢力との乱闘における主力となっていく。1929年には突撃隊を母体として設立された親衛隊の長官にハインリヒ・ヒムラーが就任した。
1923年1月のフランスによるルール地方占領もナチ党に有利に働き、集団入党や献金が相次いだためさらに勢力を拡大する。9月には国粋主義的な政党の連合体『ドイツ闘争連盟』が組織され、ヒトラーもその指導者の一人になった。このころナチ党は党員数3万5千人で、バイエルン州では有数の政党になっていた。もともとバイエルン州は伝統的に独立志向が強く反ベルリンの空気があったが、この不穏な空気は1923年9月のフリードリヒ・エーベルト大統領による非常事態宣言によって表面化し、国粋政党は反ベルリン・反ワイマール共和国を唱えて決起することになる。この「ミュンヒェン一揆」は州政府によって鎮圧され、首謀者ヒトラー以下決起メンバーは投獄され、それを免れたメンバーも国外逃亡を余儀なくされる。ナチ党も危険政党として非合法化され一時解散することになるが、反共和国の気運の高まりは衰えることがなく、いくつかのダミー団体が活動を続けた。
党内左派の中心人物で、ヒトラーとしばしば衝突したグレゴール・シュトラッサーは党首ヒトラーより先に出獄して元党員を組織した。また、その秘書で後にナチ党のプロパガンダを担当するヨーゼフ・ゲッベルスはこのころ活動を始めている。1930年2月23日、党員ホルスト・ヴェッセルが共産党員ヘラーに殺害されるが、ゲッベルスはヴェッセルを殉教者に祭り上げ、盛大な葬儀を行って共産党に対する憎悪を煽り立てた。ヴェッセルの詩『旗を高く掲げよ』には曲がつけられ、『ホルスト・ヴェッセル・リート(ホルスト・ヴェッセルの歌)』という名で党歌になった。
1925年には党首ヒトラーが釈放され、投獄を免れた幹部たちも恩赦にともなって帰国、ナチ党は再結成される。再結成後のナチ党は合法活動に徹し、議会で多数派を占めることによって権力を得ることに力を注ぐ。ナチ党の選挙戦術は大衆にアピールする強烈なイメージを前面に押し出し、理性ではなく感情に訴えるもので、膨大な量のビラ・ポスター配布や、ラジオによる活発な政見放送など、今日の選挙戦のさきがけとなるものだった。また厳格な統制に従う突撃隊の行進による宣伝、街を埋め尽くす赤を基調としたポスターなどは視覚的なイメージで大衆に直接訴えかけた。巧みな選挙戦術と他政党の無策に助けられ、1932年の2回の選挙でナチ党は第一党の座を手にするに至った。しかし二回目の選挙で得た議席は全584議席中196議席に過ぎず、単独過半数を得ることはできなかった。このためシュライヒャー首相はナチ党組織局長シュトラッサーの引き抜きを画策し、政権獲得は一時危ぶまれたが、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は側近らの説得を受けてヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日ナチ党内閣が発足した。
ナチ党の得票数の変化
| 日時 | 得票数 | 得票率 |
| 1928年5月20日 | 810,000 | 2.6% |
| 1930年9月14日 | 6,410,000 | 18.3% |
| 1932年7月31日 | 13,750,000 | 37.3% |
| 1932年11月6日 | 11,740,000 | 33.1% |
| 1933年3月5日 | 17,280,000 | 43.9% |
一党独裁
与党となったあとのナチ党は一党独裁のために他の全ての政党を解散させた。1933年の国会議事堂放火事件を奇貨として共産党、社会民主党を解散させ、その党員を吸収して第二次世界大戦の敗戦までドイツで唯一最大の政党であり続けた。1934年7月「長いナイフの夜」と呼ばれる事件によって突撃隊長レームら党内のヒトラー反対派が一斉に粛清され、独裁体制はさらに堅固なものになっている。
1933年から1945年までナチ党の組織は政府の組織とほとんど同一視され、党の組織であった大管区、管区、支部、細胞、班はそのまま国家の行政区分になった。鉤十字の党旗は国旗となり、『ホルスト・ヴェッセルの歌』は第二の国歌のように全国で歌われた。党の組織は生活の全てに浸透し、労働・教育・余暇など私生活の隅々までナチズムによって支配されていた。第二次世界大戦では防空や保安なども担当し、大戦末期には義勇兵団「国民突撃隊」の母体にもなっている。
1945年ドイツが連合軍に降伏するとナチ党は事実上解散、同年9月10日には法律によって禁止され、「犯罪的な組織」と認定された。 現在もドイツ国内では「反ナチ法」によって、出版物・装備品復刻(海外への土産物目的での製造、販売及び実物のオークション等は一部認められている)、礼式を真似るなど賛美につながる一切の行為が禁じられている。
関連項目
関連
Wikipedia:ウィキポータル 第三帝国
