六角義賢

Keywords: 六角義賢, 1521年, 1552年, 1560年, 1563年, 1568年, 1570年, 1574年, 1598年, 3月14日 (旧暦)

六角 義賢ろっかく よしかた大永元年(1521年) - 慶長3年3月14日1598年4月19日))は南近江戦国大名六角定頼の子。

1552年、父・定頼が病死したために家督を継承した。しかし、勇猛だが思慮に欠けたため、父の時代に属国化していた北近江の浅井氏に独立されてしまう。このため義賢は1560年、2万5千を号する大軍を率いて浅井領に侵攻したが、野良田の戦い浅井長政の奇襲にあって大敗を喫してしまう。このため、子の六角義治に家督を譲って出家し、名を承禎と改めたという。

また、河内の畠山高政が反三好の兵を挙げるとこれに呼応して、山城に攻め込んだが、松永久秀の戦略の前に敗れた。その結果、久米田の戦いで三好義賢を討って士気のあがる畠山高政軍も教興寺の戦いで、三好の大軍に敗れ、結果的に、三好政権の強大さを喧伝することになった。

1563年、重臣の後藤賢豊を義治が殺害したために観音寺騒動が発生した。これにより主家である六角氏に対して家臣団が不信感を持ち、次々と離反してゆき、六角氏は衰退してしまう。このとき、承禎は義治とともに居城を一時、追われたと言われている。

1568年織田信長が上洛の大軍を興すと、承禎は信長に対して敢然と挑むが、もとより衰退しきった六角軍ごときが織田軍の敵になれるはずもなく、承禎は観音寺城を追われて六角氏はあっさりと滅亡してしまった。

その後、承禎は信長包囲網が敷かれたとき、ゲリラ的に南近江一帯で暴れまくったが、1570年頃、降伏したという。1574年伊賀に逃亡して再挙を図ったが、果たせなかったという。

その後の行方は杳として知られていないが、本願寺氏の扶助を受けていたとも言われている。

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