ローマ教皇
Keywords: ローマ教皇, 1054年, 1204年, 1453年, 1981年, 2005年, 4月19日, アレクサンドリア, アンティオケイア, イエス・キリスト
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ローマ教皇(ローマきょうこう、英Pope、伊Papa)は、キリスト教の一大教派であるローマ・カトリック教会の最高位聖職者であり、政治的にはバチカン市国の元首である。
日本のマスコミでは一般にローマ法王とも呼ばれているが、これは俗称であるため、カトリック中央協議会では呼び方をローマ教皇に統一しようとしているがいまだに実現していない。
現在の教皇は、ベネディクト16世(在位 : 2005年4月19日 - )。
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称号
カトリック教会の典礼及び教会法の中での呼称は、教皇であり、敬称として「聖下」または「パパ (Papa)」などがある。これらの名称のほかに「バチカン市国の元首」「カトリック教会の最高司教」「西欧の総大司教」「イタリアの首座大司教」「ローマ管区の首都大司教」「ローマ教区の司教」「キリストの代理者」「神の代理人」「使徒の頭の後継者」「全カトリック教会の首長」などの称号で呼ばれることもある。自称としては「神のしもべたちのしもべ」ということがある。
教皇(あるいは法王)という呼称は、ギリシア語のpappas、ラテン語のpapa(または同様の西洋語)の対応語であるが、後二者は元来いずれも「父」を指す単語に過ぎず、古代においては、ローマ総大司教(総主教)およびアレクサンドリア総大司教のみにこの敬称に使用されており、現在でもコプト正教会・東方正教会ではアレクサンドリア総大司教に教皇または「パパ」の称号を用いる。
日本のカトリック司教団では、長年混用されてきた前二者の呼称を、 1981年2月のヨハネ・パウロ2世の来日を機に「ローマ教皇」に統一することにし、これを一般にも促している。一方で、「法王」の呼称の方がメディアで頻繁に用いられるため、馴染みがある、また、「きょうこう」とも「きょうおう」とも読める訳語が適切とも思えない、などといった反対意見もある。
なお、教皇就任時やクリスマスなどの際に外交儀礼として天皇から祝電、見舞電報や弔電を打つ場合、日本の官報の皇室事項には教皇ヨハネパウロ2世帰天に際しては「天皇陛下は、ローマ法王ヨアンネス・パウルス二世台下逝去につき、四月三日同法王代行エドゥアルド・マルティネス・ソマロ枢機卿猊下へ御弔電を発せられた。」と報告され、教皇ベネディクト16世選出に際しては「天皇陛下は、四月二十四日ローマ法王ベネディクトゥス十六世台下の就任式につき、同月二十三日御祝電を発せられた」と報告された。
また、東京にあるバチカン市国の大使館の日本語名称も「ローマ法王庁大使館」とされ、今回の教皇逝去に際しての大使館の声明も「駐日本法王庁大使館臨時代理大使」名で発せられている(バチカンにある日本国大使館は「在バチカン日本国大使館」)。
これらのことから、日本国政府としては「ローマ教皇」でなく「ローマ法王」の呼称を、「聖下」でなく「台下」(だいか)の敬称をそれぞれ使用しているものと考えられる。
日本のカトリック教会の見解については、以下リンク参照。
- 「ローマ法王」と「ローマ教皇」、どちらが正しい? カトリック中央協議会
歴史
初代キリスト教会の使徒ペトロ殉教の地・墓所としてローマは聖地の一つであり、ローマ教会は古くから歴史的に尊重されてきた。
かつて、北アフリカ地域(エジプト、リビア)の教会で首位にあった「アレクサンドリア(コプト)教会」の総大司教と、ラテン系地域の教会で首位にあった「ローマ教会」の総大司教が「教皇」と呼ばれていた。しかし、コンスタンティヌス帝が、首都をローマからコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)に移した後は、教会行政の中心が帝国の東側に移行する。そして、五本山と呼ばれる5つの教会の時代には、東ローマ帝国(ビザンティン帝国・ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノポリス教会の総大司教(総主教)が「世界総大司教」として二番目の首位を占めるようになり、東方ではこれら五つの教会の大司教をそれぞれ「教皇」と呼ぶようになった。
首都の移行後まもなく西方のラテン系地域の西ローマ帝国が滅んだ後、西方のローマ教会は、6世紀の東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世がイタリア半島を再びローマ帝国領にしたため東ローマ帝国の皇帝の支配・庇護下に置かれていたが、徐々に東ローマ皇帝やコンスタンティノポリスの教会と教義や文化、教会の主導権をめぐって対立するようになる。
6世紀末、時のローマ教皇グレゴリウス1世は、ゲルマン人の間に盛んに布教を行い、西欧各地の教会を支配下に治めて、勢力を拡大したので、「ローマ教会」は東ローマ帝国皇帝に対して独立の地位を獲得していった。このため西方の教会では、ローマ教会の総大司教のみを「教皇」と呼ぶようになる。特にカルケドン公会議以降、新約聖書のマタイによる福音書第16章に、イエスが12使徒のうち最初の弟子であるペトロに残した「あなたはペトロ (Πετρος)。わたしはこの岩 (πετρα) の上にわたしの教会を建てる。」(『新共同訳聖書』日本聖書協会より引用)の言葉が、ローマ総大司教をペトロの後継者として権威を高めるために強調された。
一方、統一ローマ帝国の後継者を自認する東ローマ帝国はアレクサンドリアを首位とする北アフリカ地域、アンティオキアを首位とするシリア地域、そしてローマを首位とするラテン系地域の教会の分離を阻止するのに苦心した。北アフリカやシリア地域の教会は単性論問題のとき、分裂が決定的となる。しかし、別のギリシャ系の司教を即位させることで、この問題を克服しようとした。
そして、ラテン系のローマ教会とは6世紀頃の三章問題や7世紀の単意論、8世紀の聖像破壊問題、9世紀のフィリオクェ問題とそれによる「フォティオスの分離」などで慢性的な不和が相次ぎ、1054年に「ローマ教会」と「コンスタンティノポリス教会」の両司教座が相互破門するに至った。ただし、これは司教座間の相互破門に過ぎず、東西教会の破門ではないというのが、両教会の一般的理解である。東西分裂が決定的にしたのは、1204年の第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻撃、陥落させたことや、東西合同会議フィレンツェ公会議の後にローマが約束した軍事的支援を怠ったことによってオスマン帝国にコンスタンティノポリスを攻め落とされた(1453年)こと、保守的なロシア正教会が東西和解に反対することなどが考えられる。なお相互破門状態においても教皇使節のコンスタンティノポリスへの派遣・コンスタンティノポリス総主教座からの大使派遣は行われており、和解のための交渉は継続的にもたれて来た。なお相互破門は20世紀半ばに解消されている。
また、神聖ローマ帝国などとの世俗権力との対立も歴史的に抱え込んだ。
ローマ教皇庁はペトロの墓所として古来巡礼の地であったバチカンにあり、コンスタンティヌス大帝が進呈したとされるサン・ピエトロ大聖堂(聖ペテロ大聖堂)が建てられている。ちなみに、ローマ教会の司教座は、これもコンスタンティヌス大帝が献じたとされるサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂である。
選出方法
詳細はコンクラーヴェを参照
現在の教会法では教皇職は終身だが自発的に退位できることになっている。辞任が自由に発意され、正しく表現されていれば有効であり、だれからも受理される必要はないと教会法は定めている。公式に教皇が退位を表明すると、使徒座空位が発表される。
ローマ教皇の死去時には、かつては教皇庁の国務長官が教皇の洗礼名を3度呼び、教皇のひたいを銀の槌で打つなど教皇の死亡を確認するための儀式がおこなわれていた。教皇が死去すると首席枢機卿が教皇の薨去と使徒座空位を発表する。教皇の印章「漁夫の指輪」(インタリオリング―指輪型印章)は死亡の際に破壊処分される。
教皇は教皇選挙権を持つ80歳未満の枢機卿の投票により、カトリック教会の男性信徒(主に、枢機卿、大司教、主要教会の司教)の中から選出される。現行の教会法では、枢機卿の中から選出することが義務になっている。使徒座の空位が発表されて後、15日以上の余裕を待ち、かつ、20日以内に枢機卿はバチカンに招集され、秘密会議で議論と投票を行い、最終的に投票総数の3分の2を1票超える数以上の支持を得た候補者が教皇となる。新教皇が選挙結果を受託する儀式を行った後、助祭枢機卿の代表が新教皇を発表する。教皇の即位式ではかつては豪華な教皇冠の戴冠がおこなわれていたが、ヨハネ・パウロ1世の即位以降簡素化され、廃止されている。
