ロシア帝国
Keywords: ロシア帝国, 1453年, 1472年, 1480年, 1505年, 1547年, 1584年, 1598年, 15世紀, 1605年
ロシア帝国(Российская империя)は、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまで存在したロシアの政体。帝政ロシアとも言われる。
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国土
領土は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドを加えたものとほぼ一致する面積2000万km²超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。
首都はモスクワ、1712年以降はサンクトペテルブルクに置かれた。
歴史
ロシア帝国の興りは、東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の滅亡に始まる。1453年、東ローマ帝国(パレオロゴス朝)が当時のイスラム教国家オスマン帝国に滅ぼされて滅亡した後、パレオロゴス朝最後の皇帝コンスタンティノス11世に姪がおり、東ローマ帝国が滅亡した事を知らされたモスクワ大公イヴァン3世は、この皇帝の姪を捜し出させ、1472年に結婚した。またキエフにあった東方正教会の府主教座もモスクワに移動させた。この様な形でモスクワは第三のローマと言われる様になった。これを受けてモスクワ大公イヴァン3世は東ローマ帝国の皇帝(ロシア語で「ツァーリ」)の後任を自称するに至った訳である。
厳密には1721年に、スウェーデンとの北方戦争に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院からインペラートル(皇帝)の称号を贈られ、国体を帝国と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。ただし、ロマノフ朝の前王朝リューリク朝のイヴァン3世が15世紀後半にツァーリの称号を用いたころには、ロシア(モスクワ大公国)は帝国とみなされるような力を持っていたことから、ロシア帝国という言葉の指す時期は拡大して使われることもある。
ただしその制度は西欧から一切無視された。イヴァン4世が1547年に一方的に「全ロシアのツァーリ」と称しても、西欧諸国は相手にしなかった。中欧・北欧との戦いでは劣勢を強いられ、帝国はアジアへと転換、膨張して行くことになる。西欧は当時、オスマン帝国に席巻されており、東欧の辺境の国などに関与している暇はなかったのである。イヴァン4世の死後、国は荒れ、内戦に陥った。1610年-1612年には、当時まだ大国であったポーランド王国にモスクワが占領されるといった状態であった。 1613年、リューリク朝の外戚であったミハイル・ロマノフ がポーランドをロシアから駆逐し、元老院からツァーリに任じられるが(ロマノフ朝)、まだ西欧はロマノフ家をロシアのツァーリとは認めなかった。17世紀半ばにはポーランドなどに侵攻するがなお、西欧には劣勢だった。また帝位争いも絶えなかった。このロシアが西欧に台頭して行くには、ピョートル大帝の西欧近代化まで待たなければならなかった。
歴代皇帝
リューリク家
ゴトゥノフ家
シューイスキイ家
ロマノフ家
- ミハイル・ロマノフ (1613年-1645年)
- アレクセイ (1645年-1676年)
- フョードル3世 (1676年-1682年)
- イヴァン5世 (1682年-1689年)
- ピョートル1世 (1682年-1725年)※1689年正式即位、1721年戴冠(西欧よりロシア皇帝と認められる)
- エカチェリーナ1世 (1725年-1727年)
- ピョートル2世 (1727年-1730年)
- アンナ (1730年-1740年)
- イヴァン6世 (1740年-1741年)
- エリザヴェータ (1741年-1762年)
- ピョートル3世 (1762年)
- エカチェリーナ2世 (1762年-1796年)
- パーヴェル1世 (1796年-1801年)
- アレクサンドル1世 (1801年-1825年)
- ニコライ1世 (1825年-1855年)
- アレクサンドル2世 (1855年-1881年)
- アレクサンドル3世 (1881年-1894年)
- ニコライ2世 (1894年-1917年)
