ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
Keywords: ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン, 12月16日, 12月17日, 1770年, 1812年, 1826年
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thumb|240px|ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770年12月16日ごろ(洗礼を受けたのが12月17日であることしかわかっていない) - 1827年3月26日)は、ドイツのボンに生まれる。楽聖と呼ばれ、史上最大の音楽家。
ベートーヴェンの音楽は、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンやヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトらが形成した古典派音楽の集大成であり、かつ、中期以降の作品は、ロマン派音楽への扉を開くものとなっている。
交響曲を例に取れば、スケルツォの導入(第2番)、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大(第3番「英雄」)、旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作(第5番、第7番)、標題的要素(第6番「田園」)や声楽の導入(第9番)など、革新的な技法を編み出している。その作品は、古典派が尊重する様式美とロマン的な表現主義とをきわめて高い次元で両立させており、ドイツ音楽の理想的象徴的存在として、以後の作曲家のほとんどに影響を与えた。同時に、第5交響曲に典型的に示されている「暗→明」、「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成上の規範となり、のちのロマン派や国民楽派の多くの作品がこれを追随した。
また、ベートーヴェン以前の音楽家は、宮廷や有力貴族に仕え、その作品は公式・私的行事のBGMや機会音楽として作曲されることが大部分であったが、ベートーヴェンはそうしたパトロンとの主従関係を拒否し、むしろ一般大衆に向けた作品を発表する、自立した音楽家の嚆矢となった。ベートーヴェンが史上初めて音楽家=芸術家であると公言し、音楽の歴史において重要な分岐点となる。
〔原語の発音に近づけたカタカナ表記では、ファン・ベートホーフェンになる。(ここでは日本で慣用化しているベートーヴェンと記す)アクセントはベートの部分にあり、オランダ系の名前である。〕
| 目次 |
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作品についてはベートーヴェンの楽曲一覧をご覧ください。 |
生涯
1770年、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)のボンにおいて、宮廷楽士の家に生まれる。幼少から父の強制的な教育を受け、十代のころには、酒浸りの父親に代わって家計を支えていたという。
17歳のときに初めてヴィーンでモーツァルトに出会う。22歳ではヴィーンで活動を開始、ハイドンに師事する。当初はピアノの即興演奏で名声を高めた。20歳代後半から難聴の症状が始まり、33歳のとき「ハイリゲンシュタットの遺書」と呼ばれる遺書を書く。しかし、このときの絶望から再起し、34歳のときに交響曲第3番「英雄」を発表。その後約10年間は、中期を代表する名作が次々に書かれ、「傑作の森」とよばれる。
「英雄」交響曲については、ベートーヴェンはフランスにおいて破竹の進撃を見せていたナポレオンを念頭に第3交響曲を書き上げたが、ナポレオンが皇帝になったと聞いて『彼もまた、俗物であったか』と激怒したという逸話があり、楽譜の最初のページに書いてあったナポレオンへの献呈の言葉を荒々しく消したペンの跡が現在も確認できる。このように、ベートーヴェンは政治的には自由主義者、共和主義者であり、このことを全く隠さなかったため、19世紀に入って敷かれたメッテルニヒによるヴィーン体制のもとでは「反体制分子」と見られ、周囲にはスパイがつけられていたと言われている。1812年、テプリッツにおいてドイツを代表する文豪ゲーテと会い、二人で散歩をしていた際に、オーストリア皇后の一行と遭遇した。ゲーテが脱帽・敬礼をして一行を見送ったのに対してベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切ったというエピソードも残されている。
晩年は、慢性的な腹痛や下痢など徐々に悪化する体調に加え、甥カールをめぐる養育権争いやカールの自殺未遂事件が起こり、私生活では苦悩の日々を送っている。しかし交響曲9番やミサ・ソレムニスといった大作を発表した前後からの晩年の作品群は、難解かつ崇高な精神性を湛えており、ベートーヴェンが最後に到達した境地の高さを示すものとなっている。
1826年、すでにベートヴェンは病に罹っており、翌年1827年にその波瀾に満ちた生涯を終えた。葬儀にはのべ3万人もの人々が駆け、異例のものとなった。 伝説によれば、ベートーヴェンの臨終の間際、すさまじい雷鳴とともに稲妻が閃いたが、彼は右手の拳を振り上げ厳しい挑戦的な顔をし、遥か高みを数秒間にらみつけた後、その目を永遠に閉じたのだという。そして彼は臨終際、Plaudite, amici, comedia finita est.(諸君、喝采を、喜劇(お芝居)は終わった)と発したとも伝えられている。
病気と耳疾
ベートーヴェンは20代後半から始まった難聴が次第に重くなり、晩年の約10年ほどはほぼ聞こえない状態になった。それでも弦楽四重奏曲を作曲し続けているので、ベトルジヒ・スメタナのように100%聞こえなくなったとは考えにくい。また、慢性的な腹痛や下痢は終生ベートーヴェンを悩ませた。耳疾については従来、鼓膜から聴神経への音声振動伝達をする骨が硬化する病気=耳硬化症や、神経性難聴、あるいは梅毒など諸説が唱えられ、あるいは幼いときに父親からスパルタ教育によって耳を強くぶたれたことが原因などともいわれてきた。 近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出され、ベートーヴェンが鉛中毒であったことが分かった。ベートーヴェンはワインが好物で、腹痛を紛らわす目的も含めて常飲していたが、当時のワインには鉛を含んだ甘味料が加えられており、この過剰摂取が命取りとなった可能性が高い。鉛中毒は慢性的な腹痛・下痢のほか、まれに難聴を引き起こすことから、耳疾の原因としても有力になっている。
逸話とシントラーとの関係
第5交響曲の冒頭について「運命はこのように戸を叩く」と語ったことやピアノソナタ第17番が『テンペスト』と呼ばれるようになったいきさつなど、ベートーヴェンの楽曲には逸話が多く残っている。これらは、ベートーヴェンの晩年に秘書役を務めたアントン・シントラーの著書に依るところが多い。しかし、ベートーヴェン自身はシントラーのことを信用していなかった節があり、シントラーはベートーヴェンの死後、遺品を勝手に処分するなどしていることから、シントラーの書いた逸話が事実なのか疑わしく、例え事実だとしてもベートーヴェンが本気で語ったことなのか疑問とする見方もある。
不滅の恋人
ベートーヴェンの死後、「不滅の恋人」宛に書かれた1812年の手紙が3通発見された。この恋人がだれであるのかについて、生前結婚話もあったテレーゼ・フォン・ブルンスウィックやその妹ヨゼフィーネなどが候補として考えられていたが、現在ではアントニア・ブレンターノ(当時すでに結婚し4児の母であった)であるという説が有力となっている。
代表作
交響曲(全9曲)
ピアノ協奏曲(全5曲)
ヴァイオリン協奏曲(全1曲)
- ニ長調
ピアノソナタ(全32曲)
- 第8番ハ短調「悲愴」
- 第14番嬰ハ短調「月光」
- 第17番ニ短調「テンペスト」
- 第21番ハ長調「ヴァルトシュタイン」
- 第23番ヘ短調「熱情」
- 第26番変ホ長調「告別」
- 第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」
- 第32番ハ短調
ヴァイオリンソナタ(全10曲)
- 第5番ヘ長調「春」
- 第9番イ長調「クロイツェル」
