マリー・アントワネット
Keywords: マリー・アントワネット, 10月16日, 11月2日, 1740年, 1755年, 1766年, 1793年, 1843年
right|thumb|Marie Antoinette (1783)
マリー・アントワネット(Marie Antoinette, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王妃。オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアとその夫で神聖ローマ皇帝のフランツ1世の間の娘(第9子)。元のドイツ語名はマリア・アントーニア(Maria Antonia)。
オーストリアとフランスの同盟関係を深めるため、14歳でフランス王太子ルイ(のちのフランス国王ルイ16世)と結婚した。フランス革命時期に、ヴェルサイユ宮殿からテュイルリー宮殿に移されたが、趣味・気質などの不一致から夫婦仲は思わしくなく、寂しさを紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また賭博にも熱中した。彼女は大変に移り気、享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。母のマリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って諌めたが効果は無かったようである。 また、スウェーデン貴族フェルセン伯爵との恋、大貴族達を無視しポリニャック伯夫人などの、自分のお気に入りの少数の貴族達のみを極端に偏愛する・首飾り事件など、彼女に関する騒動は絶えなかった。地味な夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただし、これは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。
ついに国庫は底をつき、徴税を試みるが、民衆の負担は既に限界に達しており、貴族からは反発を受ける。民衆の不満は爆発し、フランス革命を引き起こす。しかし、マリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたポリニャック伯夫人は、彼女を真っ先に見捨て、オーストリアに亡命した。彼女に最後まで誠実だったのは、義妹のエリザベート内親王と彼女の肖像画を描いているルブラン夫人だけであった。そこでアントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走し兄に助けを求めようと計画するが失敗。(ヴァレンヌ事件参照。)この事件により、親国王派の国民からも見離され、夫と共に処刑されることになる。王位後継者のルイ17世はジャコバン派の靴屋にひきとられ、ぞんさいな扱いを受けたという。国王処刑の後に、アントワネットに対する裁判も行われたが、その有罪判決や死刑は、事前に決定されていた。
一説には、アントワネットのギロチンでの処刑の際には、通常のうつ伏せではなく仰向けに寝かされ、落ちてくる刃が見えるように、頭部から顔面への覆いもされずに執行されたといわれている。その内容の真偽よりも、こうした逸話が残っているという事実に、当時の国民の怒りや不満がうかがえる。
ところが、処刑が決定した直後のアントワネットの書簡には、「犯罪者として処刑されるのではないので、何ら恥ずべきことではない」といった内容が記されていた。民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての、民衆への配慮の欠如、貴族も含めた無知無能ぶりや、税収の浪費になど対して、死刑という判決を下したとも考えられ、その最期においても、民衆との乖離は正されなかった。結局、アントワネットの名誉回復には、死後三十五年以上を要した。
パンが無ければお菓子を食べればいい
民衆が貧困と食料難に陥った際の、マリー・アントワネット(またはルイ15世の娘(ルイ16世の叔母)、アデレイド内親王)が言ったとされる「パンが無ければお菓子(またはケーキまたはクロワッサン)を食べればいいじゃない」の台詞が良く知られているが、(原文は「Qu'ils mangent de la brioche」、訳せば、彼らにはブリオッシュを食べさせなさい)これはアントワネット自身の言葉ではない。ジャン=ジャック・ルソー『告白』(1766年頃執筆)の第六巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、「農民にはパンがありません」といわれて、「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えたことを思い出したとあり、この記事が原典であるといわれている。新しい愛人が出来たヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。
アルフォンス・カーは、1843年出版した『悪女たち』の中で、執筆の際には、既にマリーアントワネットの発言であるとして流布していたこの言葉は、1760年出版のある本に、「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとされていると書いている。
なお、当時のフランス法には、「食糧難の際にはパンとブリオッシュを同じ値段で売ること」となっていたとの説もある。ちなみにクロワッサンはマリー・アントワネットがオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたという伝説がある。
また直接関連は無いが似たようなエピソードに、3世紀の中国・西晋の第2代皇帝恵帝が「民衆が餓えている」と聞いて「穀物がないのならば、なぜ肉を食べないのか」と言った、というものがある。
