マフムト2世

Keywords: マフムト2世, 1785年, 1807年, 1808年, 1821年, 1827年, 1829年, 1831年, 1839年, 1861年

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マフムト2世

マフムト2世1785年7月20日1839年7月1日)は、オスマン朝の第30代スルタン。第27代スルタン・アブデュルハミト1世の子で、第29代スルタン・ムスタファ4世の弟(在位:1808年-1839年)。

1808年、兄のムスタファ4世が死去したため、後を継いで即位した。政治手腕に優れ、従兄のセリム3世の遺志を継いで帝国近代化を目指して、積極的な改革に取り組んだ。まず、弱体化して役立たずとなっていたイェニチェリを解散させて西洋式の軍隊を創設した。さらに中央集権化を目指して豪族の勢力弱体化に務め、これも成功した。ところが、これがかえって帝国の勢力減退を招いてしまう。しかも欧州からフランス革命などが波及してきたため、1821年にはギリシア独立戦争が勃発する。マフムト2世はこれを鎮圧しようとしたが、豪族の勢力を削いだことがかえって既存の軍事力衰退を招いていたため、1827年にはナヴァリノの海戦で大敗を喫してしまう。そして1829年、アドリアノープル条約を結んでギリシアの独立を承認せざるを得なくなった。おまけに1831年にはエジプトの太守(パシャ)であるムハンマド・アリーが反乱を起こした。これが第1次エジプト事件である。このように内紛が続いた結果、イギリスフランスなど列強諸国の進出を招くこととなり、不平等条約を結ぶことを余儀なくされてしまった。とはいえ、明確に衰退しだした帝国を救うには、内政の改革を断行する以外の道は無かった。マフムト2世の治世下に広大な帝国は事実上解体してしまったものの、本国アナトリアと、帝都イスタンブルを守り抜く事が出来たのである。同じイスラム諸帝国ペルシアムガル帝国が、ヨーロッパ列強の植民地にされたのと違い、全植民地化を免れることが出来たのも、マフムト2世の努力のお陰であったとも言えなくもないかもしれない。

1839年、56歳で死去。後を子のアブデュルメジト1世が継いだ。

マフムト2世の時代に結ばれた不平等条約は、後にトルコの列強による半植民地化を招くことなったが、すでに欧州イスラム世界の力関係が逆転した時世にあっては、致し方ない帰結であった。しかし治世の前半は、帝母ナクシディル・スルタンに見守られながら、ナポレオン戦争などの帝国の危機を乗り切ったと言われる。

オスマン帝国の君主

第29代
ムスタファ4世
1807年 - 1808年

第30代
マフムト2世
1808年 - 1839年

第31代
アブデュルメジト1世
1839年 - 1861年

Keywords: マフムト2世, 1785年, 1807年, 1808年, 1821年, 1827年, 1829年, 1831年, 1839年, 1861年