ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻
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ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻(ソビエトれんぽうのアフガニスタンしんこう)は、ソビエト・アフガン戦争とも呼ばれ、1979年から10年に渡った。
実際の戦闘は1979年12月24日に始まったと一般的に考えられている。最終的にソビエト軍は1988年5月15日から1989年2月2日の間にアフガニスタンから撤退した。ソビエト連邦はすべての軍隊は1989年2月15日にアフガニスタンから退去したと公式に発表した。
多くの人は、この戦争は主権国家への正当な理由のない侵略行為だと見なしている。1982年11月29日、国連総会でソビエト連邦の軍隊はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連決議 37/37 が採択された。しかしながら、一方では、ソビエト連邦を支持した人もおり、彼らは、この戦争は貧しい同盟国を救助しに行った行為だ、あるいはイスラム教徒のテロリストを封じ込める為の先制攻撃なのだと、考えた。
この戦争において、CIAは、ソビエト連邦に対する抵抗運動を引き起こすために、10年以上にわたって21億ドルを費やした。ムジャーヒディーンと呼ばれたこの抵抗運動の兵士たちの中には、20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵が含まれていた。サウジアラビア出身のオサーマ・ビンラーディンもそれに加わった一人である。
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侵攻の経過
どの出来事を戦争の始まりと考えるかによってさまざまな日付が戦争の開始日として挙げられている。
アフガニスタンでは、1978年4月27日、共産主義政党アフガニスタン人民民主党(PDDA)による革命が起こり、首都カブールにおける政権を確立して国号をアフガニスタン民主共和国(DRA)に改めた。しかし、民主共和国に対して国内の保守派・イスラム派・反共産主義派勢力が続々と蜂起し、民主共和国政権は全土のほとんどの支配力を失う。
これに対して、ソビエト連邦は、1979年10月、軍隊の動員を開始し、1979年12月、政府に対する攻撃を援護するための戦闘部隊の空輸という決定的な出来事が起きた。以降の年表でこの期間に起きた重要な出来事の一覧を表示する。
侵攻の前段階
- 1978年4月27日 - 人民民主党のクーデターにより、アフガニスタン共和国大統領ムハンマド・ダーウード(ザーヒル・シャー元国王の従兄弟)が殺害された。釈放された人民民主党書記長ヌール・ムハンマド・タラキーは、4月30日に革命評議会議長に選出され、大統領、首相として政権を握り、アフガニスタン民主共和国の樹立を宣言した。タラキーと並ぶ人民民主党の幹部ハーフィズッラー・アミーンとバーブラーク・カールマルはともに首相代理に任命された。
- 1978年春 - 地方で部族やイスラム擁護勢力による抵抗運動・反乱が始まる。
- 1978年晩春 - ソビエト政府がアミーンと接触し、タラキー排除に関する話し合いを始めた。
- 1978年12月5日 - 民主共和国がソビエト連邦との友好条約に調印。
- 1979年2月15日 - アメリカ大使アドルフ・ダッブスが暴徒により誘拐され、アミーン首相によって救出が試みられている間に殺害された。アメリカは彼の死を導くことになった銃撃戦を引き起こしたとしてソビエト連邦を非難した。
- 1979年3月 - ソビエト連邦がアフガニスタンに対する強力な軍事的支援を開始。その一つとして500人の軍事顧問が援助のために到着した。彼らが家族を伴ってきたことは長期にわたり関与することを意味した。
- 1979年3月10日 - ヘラートのアフガニスタン人部隊が暴動を起こし、350人のソビエト市民が殺された。3月20日までに暴動は鎮圧されたが、これにより多くの人命が失われた。
- 1979年3月 - ソビエトの顧問団はアフガニスタン政府の技術者からバグラム空軍基地の運営を引継ぎ始めた。外交上の公文書や機関紙プラウダの記事ではアフガニスタンを“社会主義国家群の一員”と呼び始めた。ソビエト連邦は今やアフガニスタンをブレジネフ・ドクトリンに属するものと見なしているということを示唆するものとして理解された。
- 1979年8月 - ソビエト陸軍の司令官イヴァン・パブロスキー将軍が50人以上の将校を伴ってアフガニスタンに到着した。
- 1979年9月1日 - タラキー議長がキューバのハバナで開かれた非同盟諸国の会議に出席。
- 1979年9月11日 - タラキーがカブールに帰国。
- 1979年9月12日 - アミーンの圧力により、タラキーが「健康上の理由」により政府と党の一切の職務を辞職。
- 1979年9月14日 - 大統領宮殿においてアミーン暗殺未遂。タラキーによって命令されたものだとみられる。
- 1979年9月16日 - アミーン首相が、政府と党におけるタラキーの職を継承。
- 1979年9月18日 - タラキー寄りの政府の役人や軍の将校の一部の集団が抵抗したが、アミンに忠実な他の者たちによって殺された。タラキーはこの戦闘の最中に殺されたと推測される。
侵攻の準備
- 1979年10月 - パブロスキー将軍と参謀たちはアフガニスタンを離れた。ソビエト連邦は南の複数のソビエト社会主義共和国でカテゴリー2の師団の動員を開始した。
- 1979年10月10日 - カブール・タイムズが、タラキーが病気のために死亡したことを報じた。他の新聞の報道は、銃撃戦の最中に絞殺または処刑によって死亡したのではないかと示唆したが、それを証明できる者はいなかった。
- 1979年11月7日 - ロシア革命記念日を祝うカブール・タイムズ誌は、”偉大な10月革命の継続”におけるアフガニスタンの役割についての記事を書いた。この報告を見た多くの人は、人民民主党がアフガニスタンに関するブレジネフ・ドクトリンを受け入れたと見なした。
- 1979年11月28日 - ソビエト連邦の内務大臣の代理として、ヴィクトール・パプチン中将が”相互協力と利害関係上の問題点”に関する会合に出席するためにカブールに到着した。中将は侵攻の調整役を引き受けるKGBのトップであったと推測される。
- 1979年12月 - タシュケントを拠点とする重武装したソ連の空挺大隊のいくつかがバグラム空軍基地に配置された。
- 1979年12月17日 - アフガニスタンの情報機関の長であるアサドゥッラー・アミーン(アミーンの甥か)暗殺未遂。重傷を負ったアサドゥッラーは、タシュケントで治療を受けるために国を離れた。
- 1979年12月18日 - バグラムに配置された空挺部隊はサラン峠を見張るために移動した。これはタシュケントを本拠地とする第357自動車化狙撃師団が国境を越えてやってくるのを支援するためのものであった。
侵攻の開始
- 1979年12月21日 - 増強されたソビエト空挺連隊がバグラムに空輸された。
- 1979年12月22日 - アフガニスタンに駐留するソビエト軍の顧問団はアフガニスタン人の部隊に戦車や他の重要な装備についてのメンテナンスのサイクルを経験させるように勧めた。カブールの外側に通じる遠距離通信網は首都を孤立させるために切断された。アミーンは大統領府を侵攻があった場合により守りやすい場所にあるダールルアマーン宮殿に移した。
- 1979年12月24日 - ソビエト連邦の3個師団規模の部隊がカブールとその周辺地域の飛行場をすべて制圧した。スペツナズ特殊部隊がカブールの通信網の支配権を掌握し、都市内のすべての通信を統制した。
- 1979年12月26日 - さらなるソビエト連邦の連隊や師団規模の部隊がアフガニスタン国境に向かって南下を始めた。
- 1979年12月27日 - ソビエトの内務顧問たちはアフガニスタン政府の役人たちのためのパーティーをインターコンチネンタルホテルで開いたが、そこに来た役人たちは全員逮捕された。ソビエトの軍事顧問たちはアフガニスタン人の軍事顧問たちのためのパーティーを開いたが、そこに来たアフガニスタン人の軍事顧問たちは全員投獄された。ソビエト連邦の3個大隊がアミーンのいる宮殿を攻撃し、アミーンを殺害した。
- 1979年12月28日 - さらにソ連の3つの自動車化狙撃師団がソビエト連邦南部の4つの予備師団に支援されてアフガニスタン国境を越えた。
- 1979年12月29日 - タラキーらのハルク派と別路線であったために東欧で亡命生活を送っていた人民民主党パルチャム派のリーダーであるバーブラーク・カールマルが、アフガニスタン民主共和国の大統領、首相、人民民主党の書記長に就任した。この日までに5万人以上のソビエト軍がアフガニスタンを占領した。
政治的・軍事的動機
上のような経緯をたどったソビエト連邦による侵攻の動機については様々な説がある。
ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻はソビエト連邦を構成する中央アジアやカフカスの諸ソビエト社会主義共和国がソビエト連邦から分離するのを防ぐための行動だと考える人もいる。アフガニスタン侵攻の少し前にイランではイスラム革命が行われ、アメリカに支援されたモハンマド・レザー・パフラヴィー国王政府が倒されるが、イラン新政府はアメリカだけではなくソビエト連邦に対しても友好的ではなかった。このことはソビエト連邦、中華人民共和国、NATOに加えてユーラシア大陸の政治に新たな勢力の軸が加わったことを意味し、ソビエト連邦を非常にうろたえさせた。
イランは中央アジア・カフカスと歴史的・文化的繋がりが深く、イスラム革命後のイランには、北のソビエト連邦や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的、経済的な動機が十分にあった。アフガニスタンでもイスラム教徒による似たような革命が進展しつつあるように見えた。6500万人の人口をもつ地域大国イランは科学技術が進歩しており、西側諸国特にアメリカの軍事技術を受け入れて軍備が整えられていた。イランの東側に位置し、しかも貧しく科学技術の進歩していないアフガニスタンへの侵略は、ソビエト連邦にとって、イランに対する何らかの明白な行動にくらべ、より好ましかったのではないかと考えられる。
これらの意見は、当時のソビエト連邦の指導者レオニード・ブレジネフが、ソビエト連邦は(おそらく連邦内のソビエト社会主義共和国を含め)危険にさらされている同じ社会主義国を救援する権利を持つと宣言した公文書“ブレジネフ・ドクトリン”によって裏付けられている。
政治的・軍事的目的
アフガニスタンは第一に農業と農民の国である。当時の政府の政治的な形態は部族制的であり、強力な部族が協力しあって社会の秩序を保っていた。ソビエト連邦には彼らをうまく治めるために大きく二つの選択肢があった。
- 抵抗運動(ムジャーヒディーン)をアフガニスタンの外に追い払い、農耕地帯の人口を減らし、都市の支配権をソビエトが後ろ盾となっている政府に与える。
- 抵抗の意思を打ち砕くために機械化された戦闘を行う圧倒的な軍事力を使うことで、一般の人々がもはや抵抗しえないほどの大きな破壊と混乱を引き起こす。
どちらの目的もブレジネフ・ドクトリンを支え、またソビエト連邦の南部の国境地帯を団結させ、そして敵対的なイランに対する戦略的な反撃の拠点を与えるものであった。
侵攻の概要
ソビエト連邦の戦術は以下に述べるような軍事的・経済的な活動を利用したものだった。
- ソ連第40軍(10万人以上の地上部隊で構成)の展開。空の支援、兵站部門、内務省(MVD)の部隊、それから他の種々雑多な部隊を含めると、総勢でおよそ17万5千人になったと複数の観測者によって計算されている。この数字は当時のソビエト連邦が保有するカテゴリー1(第一線級)の師団のほぼ20%に相当した。
- 前線の裏側ではソビエト連邦によって化学兵器が広域にわたって使用されていた。このことは(ソ連の軍事雑誌が伝えるところによると)ソ連軍のための訓練だとみなされていた。
- 2000万個以上の対人地雷がソビエト連邦によってばらまかれた。これらの対人地雷のいくつかは子供に拾わせるためにペンや人形やきらきら光るアクセサリーの形をしており、”お人形さん爆弾”として知られていた。
- ロシア人の費用は1986年のドルで計算して一年におよそ200億ドルかかっていた。
このような戦術の結末は次のようなものであった。
- アフガニスタン人の戦闘員(ムジャーヒディーンや政府関係者)はおよそ9万人が死亡し、9万人が負傷した。市民の死傷者を含めると、総人口の10%、男性人口の13.5%が死亡し、全体では150万人が死亡したと推定されている。
- ソビエト連邦側では2万2千人が死亡し、7万5千人が負傷した。
- およそ600万人の難民が周辺諸国に追いやられた。
- アフガニスタンは国の価値の約1/3から1/2にあたるおよそ500億ドルの損害を被った。
- 農業生産量は50%にまで減少し、家畜の50%が失われた。
- 舗装された道路の70%は破壊された。
- 1万5千ある村落のうち、5千の村落は徹底的に破壊されるか、または農地や井戸や道路といった経済的な基盤をすべて破壊されることで経済的に立ち行かなくなった。
