オサーマ・ビンラーディン
Keywords: オサーマ・ビンラーディン, 10月29日, 1957年, 1979年, 1989年, 1990年代, 1993年, 1994年, 1996年, 2000年
right オサーマ・ビンラーディン(アラビア語:أسامة بن لادن)ことウサーマ・ビン=ムハンマド・ビン=アワド・ビン=ラーディン(أسامة بن محمد بن عوض بن لادن Usāma bin Muhammad bin ʿAwad bin Lādin)は、数々のテロ事件を首謀したとされるサウジアラビア出身のアラブ人。正確な生年は不明だが、1957年とする説がある。
日本語ではオサマ・ビンラディン (NHK、テレビ朝日など)、ウサマ・ビンラディン (日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京など)などとも表記される。 なお、「ビンラーディン」は厳密には姓ではなく「ラーディンの息子」という意味の添え名であるが、オサーマの出自であるラーディンを祖とする一族の男子は共通してビンラーディンを添え名として名乗っているため、便宜的に「家名」として扱われる(人名#イスラム圏の名前を参照)。
ラーディン一族はイエメンのハドラマウト地方出身の名家で、サウジアラビアの建設業関係の財閥を形成しており、一族の巨額な財産分与がテロ組織の資金源になっているとされる。一族は、アメリカのブッシュ大統領一家とも金銭的つながりがあり、父のムハンマド・ビンラーディンは元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だった。また、オサーマの兄のサーレムは現アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者である。
オサーマはサウジアラビアで生まれ育ち、キング・アブドルアズィーズ大学を卒業後、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻(1979年-1989年)のときアフガニスタンにかけつけ、アフガンゲリラ諸派とともにアフガン義勇兵としてソ連軍と闘った。オサーマは個人財産を生かしてアフガン義勇兵のスポンサーとなり、エジプトなどから義勇兵を募集して組織化しアフガニスタンへ送り込んだ。
彼らはアフガニスタンではアメリカ合衆国の後ろ盾を受けていたが、ソ連の敗退後、オサーマはアフガニスタンで共に戦ったエジプトのイスラム急進主義派テロ組織ジハード団の指導者アイマン・ザワーヒリーなどの影響を受け、反米活動に転じた。ソ連の敗退後、サウジアラビアへ帰国したオサーマは湾岸戦争時にサウジアラビア王家が彼の献策を退けて、アメリカ合衆国の軍隊を国内に駐留させたことに反発し、急速に反米活動に傾倒していった。アフガン帰還兵への福祉支援組織を隠れ蓑に、国際テロリズムのネットワークを作り上げた。
1990年代以降、オサーマ・ビンラーディンはイスラム主義(原理主義)的な背景を持つ国際テロリズム組織の黒幕とされ、彼の関わったとされるテロ事件は、1993年のニューヨーク世界貿易センター爆破事件、2000年イエメン沖の米駆逐艦コール爆破事件、2001年のアメリカ同時多発テロ事件などがある。
その一方で、2001年のアメリカ同時多発テロ事件の直前にCIAエージェントと交渉していたことが報道されており、本当はアメリカの工作員なのではないかと疑う筋もある。
活動の年譜
- 1994年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、一時スーダンに身を寄せる。
- 1996年、アフガニスタンに逃げて、イスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行ったとみられる。
- 2001年秋にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡しが要請されたが、ターリバーンはこれを拒否した。このころまでにターリバーン政権内にはビンラーディンの影響力が著しく及んでいたとされる。
- ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
- 2004年2月28日、イラン国営放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビンラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
- 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、最近撮影されたと思われるビンラーディンの映像を放映。この中で、ビンラーディンはアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。
